当プロジェクトにとって問題関心の共有化は重要な作業だったが、プロジェクト3年目に入ると、その問題関心の方向そのものを検討し直し、最小限の措置として関心の幅なり領域なりを幾分か広げるべきことが明らかになった。当プロジェクトを申請したのは2006年秋であったが、その後、アメリカ経済が2008年9月のリーマンショックを機に、住宅バブルの崩壊と未曾有の金融危機に見舞われ、またオバマ政権が登場するなど、調査対象としていたシリコンバレーを含む西海岸の経済環境、政治・社会環境が様変わりしたためである。
高機能携帯電話の普及やタブレット型携帯端末の登場などがIT産業の枠内での進化とすれば、テスラなどの電気自動車ベンチャーやスマートグリッド構想などは、たとえシリコンバレーのIT企業が関与していてもIT産業本来の枠組みに収まらない新たなイノベーションの胎動を示すものであり、シリコンバレーはIT産業のメッカから再生可能エネルギー、環境技術産業の集積地へと移行し続けている。テスラを視察対象に加え、現地セミナーで講師に環境・エネルギーをめぐるベンチャー投資の動向について熱心に質問したのもこの問題関心見直しの反映である。 2.内部向け研究会と当共同研究の立ち位置
当プロジェクトは、メンバーのみによる研究会を開催し、アナリー・サクセニアン(カリフォルニア大学バークレー教授)の著書『最新・経済地理学 グローバル経済と地域の優位性』2008年 日経BP(AnnaLee Saxenian, The New Argonauts: Regional Advantage in a Global Economy, Harvard University Press, 2006)を検討した。同書は、インド・中国等からの外国人・移民起業家(アルゴノーツと呼ぶ)がシリコンバレーの発展に果たした肯定的な役割に光を当てようという極めて斬新なものであるが、当プロジェクトの問題関心であるIT産業の集積と移民労働者の内的関連を正面から扱った数少ない先行業績の一つであった。
ITバブル崩壊後にアルゴノーツがシリコンバレーから母国に帰り、母国でのIT産業育成に貢献したことが知られているが、問題はこれをどう評価すべきかにある。全米競争力評議会報告書「イノベート・アメリカ」(パルミサーノ・レポート)等に見られるように、アメリカ系企業自身が進めた活発なオフショアリングともあいまって、自国IT業界に空洞化をもたらし、また恐るべき潜在的競争者を育てるという意味でネガティブな評価を受けていたアルゴノーツが、サクセニアンにおいては、シリコンバレーモデル成功の秘訣として極めて高く評価されている。
なお、サクセニアンも参加しているスタンフォード・プロジェクトについて若干付言しておきたい。スタンフォード・プロジェクトとは、スタンフォード大学アジア太平洋研究センターの研究プロジェクトStanford Project on Regions of Innovation and Entrepreneurship(SPRIE)のことである。すでにその成果が、チョン・ムーン・リーほか編『シリコンバレー なぜ変わり続けるのか(上・下)』2001年、日本経済新聞社(Chong-Moon Lee et al. (ed.), The Silicon Valley Edge: a habitat for innovation and entrepreneurship, 2000) として出版され、サクセニアンも論稿「移民起業家のネットワーク」を寄せている。移民起業家(アルゴノーツ)の概念もすでにそこで提示されている。
スタンフォード・プロジェクトによる著書のなかにサクセニアン論文があるか否かに関わらず、アジア太平洋研究センターによって組成されたスタンフォード・プロジェクト自身が、当プロジェクトとは問題関心がオーバーラップしており、その結果として、スタンフォード・プロジェクトの日本分析に参加協力した日本政策投資銀行による調査研究報告もまた当共同研究にとっての先行業績に加わってくる。
すでに述べたように、サクセニアンの著作は当プロジェクトの研究に先立つ業績として学ぶべきことの多い素晴らしい労作である。ハイテク産業集積と移民労働者の双方を扱うことについては、産業と労働という従来からのフレームワークをベースにしつつ、さらに新たな切り口も求められていた。
敷衍していえば、併せて論じられるべき経済的諸現象や政治・社会的諸現象、例えば、地域の分業ネットワーク、研究開発・試作機能集積とファブレス化、新興国とのあいだのネットワーク(サプライチェーン)、オフショアリング、頭脳労働者・低賃金労働者の吸引、移民政策の在り方、大都市圏再生と都市型産業、大都市圏における格差問題とジェントリフィケーションや、さらに国の在り方にも係わって、IT立国化の方途と是非、ものづくり擦り合わせ基盤維持の可能性等々の問いに答えられるだけのフレームワークへとブラッシュアップしなければならなかったのであるが、そこへの重要な手掛かりを示してくれていたのがサクセニアンの業績だったのである。
ただ、サクセニアンの著書の結論すべてを肯定することはできなかった。当共同研究の立ち位置を示すために、サクセニアンに足りないと思われる部分を指摘しておきたい。
第1に指摘すべきは、サクセニアンは経済地理学や都市論など地域研究の分野で優れた研究を発表しているが、ITあるいは電機・電子産業の分析についてはあまり踏み込んでいない点である。
第2に、移民起業家(アルゴノーツ)を強調するあまり、高学歴ハイレベルの移民・留学生を扱い、低賃金移民労働者が視野の外に置かれている点が挙げられる。そうなった理由は詳らかでないが、頭脳循環(ブレイン・サーキュレーション)論に拠って、途上国からの頭脳流出(ブレイン・ドレイン)とアメリカ国内にあるハイテク産業流出・脆弱化という現実の両懸念に応えようとしたことが関係していそうである。
当共同論文は、第1部で前者を意識し、また第2部で後者を意識して執筆されているが、上掲の経済・社会現象すべてが取り上げられているわけではないこと、また総じて、シリコンバレーを世界最先端のIT産業集積地とする当初の問題関心に沿う形で執筆されていることをお断わりしておかなければならない。
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