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XECUTIVE 将来は自社製品の開発高尾社長 他社の取組みとして、当社でも実施することが望ましいものは、やはり自社製品の開発だと考えます。当社では、自社製品の開発までには至っていません。生産の増減など取引先の動向に合わせながら生産するということは、安定もありますが、経営が左右されることにもなります。それに対して、自社製品を持っているところは強いと思います。当社もなるべく早い時期に自社製品を開発できる力をつけたいと考えています。村山 ところで、社長はいつ頃から会社にかかわるようになったのですか?高尾社長 私は幼少の頃より前社長(父親)の背中を見て成長しました。会社は小さいながらも一生懸命働く父親と、一緒に働く従業員をみながら育ちました。日本が昭和の発展を遂げている最中でした。私も機械加工や納品業務等を小学校4年生から実際の現場で体験しながら育ちました。様々な取引先、得意(納品)先、仕入先、そして外注先企業やその経営者、従業員の方と接してきました。その経験の中で、企業(当時は企業とは言えないほどの町工場)は、ある程度の規模がないと力を発揮できないということを痛感しました。大きな取引先からは、殆ど相手にされず、また、発注元としてお願いしても、仕事を引き受けていただけないこともありました。会社成長のキッカケ村山 いろいろと苦労も経験されたのですね。ところで貴社が成長するキッカケはどのようなことだったのですか?高尾社長 私が大学1年生の時、ある取引先を通じて、その年に開業したばかりの「小松フォ-クリフト(現在のコマツ栃木工場)」と取引を開始する事が出来ました。私は一営業マンとして、大学に通いながらでしたが、小松フォ-クリフトに通い続けました。そして、大学を卒業した後すぐに高尾工業の専務として、正式に小松フォ-クリフトの担当として、受注の拡大のために営業活動をしました。当然ですが、新規受注品の加工設備を増強する必要が生じました。それに対して財務担当であった私の母との交渉が必要でした。よく母親とは設備の導入について口論をしたことを覚えています(当時は、規模も小さく、そのため当然ですが余裕資金がなかったためです)。様々なこともありましたが、おかげ様で取引開始時には、月の売り上げが数万円程度であったものが、大学卒業1年後には月あたりの取引額が1000万円を超えるようになりました。そして、私が前社長(現会長)から社長を受け継いだのは、22年前の44歳の時です。丁度バブルの崩壊が始まった頃で、大変な時期でした。後継者への承継村山 さて、来期には後継者である副社長を社長に昇格させる予定とのことですが、後継者である副社後輩社員に対する先輩社員のOJTの様子掲示された技能推進計画表と副社長26中小企業支援研究

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