中小企業支援研究No4
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XECUTIVE なかったので、新しい商売を探しにアメリカに行きました。前田 ご祖父が新しい商売、しかも当時、最高の商売が学べる銀座へ向かったことが思い出されますね。どうなりましたか。廣井 当時アメリカで、マクドナルドのようなスタイルのデリカショップ、テイクアウトショップをサンフランシスコ、ロスアンジェルス、シアトルなどで見て、これを日本でやろうと考えました。前田 ファストフードの新事業はできたのですか。廣井 そうはいかず、父親から「白牡丹を継がないのなら出ていけ」といわれ、結局化粧品店をやる決意をしました。その後、1987年に店舗が老朽化していたので銀行から借入金をして本社ビル(地上7階、地下1階)を新築しました。バブルになる前でした。前田 老舗を維持するための大変革でしたね。廣井 父は軍隊から帰って化粧品店を再興しましたが、当時、店には戦地帰りの元番頭さん達がいましたから苦労していました。しかし、私が事業承継するときには、時代は資金運用をして儲ける時代といわれていましたので、自己資金がなくても銀行は貸してくれました。私が銀行の時はできなかったことでした。前田 前職の経験を生かして、時代の変化を見逃さなかったのですね。廣井 バブル崩壊後には、銀行から借入金の追加担保を差し入れるよう言われましたが、約定通り支払ってきていましたので、お互いにノ―リスクというわけにはいかないと銀行にお願いして、ご協力をいただきました。老舗を一等地で永続していく革新 前田 資金繰りをいかに乗り切っていくかが老舗経営の重要なポイントですが、金融機関での経験をフルに生かして乗り越えたのですね。しかし、銀座白牡丹の歴史を継ぐ老舗ですが、このような一等地で化粧品店経営だけでは、税金問題などで、結局は店を閉めていくという不安はありませんでしたか。廣井 はい。私の場合は祖父や父が商売で増やし残してくれた遊休土地がありましたので、相続対策も考え不動産事業を始めました。前田 化粧品店で先代が蓄えてきた資産を再活用することで、時代を乗り切っていく新たな活力になったのですね。御社にとって重大なターニングポイントでしたね。全国には、いい御商売をしていても、一業種では、業界が悪化するとそのまま廃業する老舗が少なくありません。一等地にある店ほどその傾向が強くなります。ところで、御社は化粧品業界にも大きな貢献をされてきましたが、そこにも何らかの革新が必要であったと思いますので、そちらのお話も伺わせてください。廣井 当時は、資生堂、カネボウ、コーセーなどメーカー扱いが強い時代でした。どの店も近隣に薬局なども含めて化粧品が増えていく時代でしたので、私も化粧品販売業に本腰を入れ始めました。前田 商店街では老舗はどのような状況ですか。廣井 3年前には伊勢佐木町1・2丁目地区商店街には、創業100年を超える老舗が12軒程ありましたが、歴史ある横浜松坂屋を含め4店が廃業しました。前田 老舗とはいえ時代を先読みしての対応が必要なことがわかります。廣井 そうですね。祖父は最初は紺屋が嫌だと言って親からこっぴどく叱られたそうですが、紺屋のままで生き残る難しさを感じたのだと思います。祖父は銀座でお礼奉公しながら、老舗に集まる世界情勢、株のこと、土地のことを学び不動産を増やしていきました。父はバブルの時代それらの資産を増やし、私はこの遊休不動産を活用してきました。前田 まさに事業家は現在の商売の知識だけでなく、いろいろな知識やノウハウが必要ですね。創業時の面影を残す大正期、昭和2年頃の白牡丹廣井商店24中小企業支援研究

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