2019_RSS webbook
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INTERVIEWの「人の役に立ちたい」という強い思いが、①体育会の共通目標を明らかにし、②体育会全体のコミュニケーションを取り、③協働意識を醸成する、という組織成立の3条件3を見事に実現させることとなり、組織のリーダーとしての在り方をこの時期に学んでいたと考えられる。3.社会人としてのキャリアと社長の言葉1994年山梨はSRGタカミヤに就職し、配属先の大阪機材工場ではレンタル資材の管理を担当した。山梨はここで1年勤務した。その時に当時の社長の話を良く聞いたが、その中で「社長を目指せ」という創業社長の言葉が、学生時代から強く心に刻んでいた「社長になる」という思いと一致していたことが印象に残っていた。社長の言葉を励みに翌年の久喜センターの新設に合わせて工場長として赴任し、千葉や静岡への営業拡大に合わせたレンタル資材の効率的な運用や組織の統制を積極的に行った。2001年に北陸新幹線の工事に伴い北陸出張所の責任者として4000坪のヤードを任され、経営と向かい合う機会を得たのが29歳。3年後に北陸営業所を新設した時には所長に就任して北陸新幹線の高架部の工程を担当した。2007年には東北支店の副支店長に就任し、在任中に東日本大震災復興のための港湾工事も行った。4.アサヒ工業㈱との出会い北陸新幹線の高架の下部工4や港湾工事に重要な役割を果たしていたのが、SRGタカミヤの協力会社としてステンレス製型枠をレンタル提供していた㈱ネクステック前身のアサヒ工業㈱である。建設用コンクリート型枠は木製が主流であるが、アサヒ工業は、コスト削減、仕上がりの精度向上、工期の大幅短縮に加え、環境に優しく安全で職人数の軽減化を図り、仕上がりの美しさがセールスポイントとなる「オリジナルのステンレス製型枠」を展開した。山梨は自社の仮設機材とアサヒ工業のステンレス製型枠を組み合わせた商品を他社との差別化ツールとして顧客への営業を拡大して行った。一方で、山梨とタッグを組んで仕事を続けていたアサヒ工業の杉本社長は、自社の事業継続について悩みを持っていた。自社オリジナルの鋼材型枠を次世代につなぐための入口となる「後継者問題」であった。山梨の人間的魅力と統率力に触れるたびに「山梨を自社の後継者に」という思いが高まった杉本社長は、SRGタカミヤに対する事業の譲り渡しという方法を選択し、連結子会社となった暁には親会社からの出向という形式で山梨を社長として迎え、自身は会長として山梨を補佐することで事業承継に成功した。5.社長就任新入社員の頃から指導的立場での経験を積み、SRGタカミヤの創業社長に導かれるように社長になったと言う山梨であるが、社長に就任した初年度にアサヒ工業の労働環境や財務状況の実情を知って会社の立て直しには時間が掛かると覚悟した。現場では3S活動、5S活動を開始すると同時に、稼働率が全く不明であった資材にコードを付与してデータ化することから着手した。事務所と工場間の連絡が手書きの伝票とファックスでの連絡であったものを、工場では伝票を出力するだけで済むよう改善を実行した。更に、入出庫、在庫管理、加工・整備の情報を手書きからデータ化することで事務作業の効率化とコストの管理が可能となり、生産性の見える化を実現することで業績向上に直結することとなった。これらの取組みは労働環境の改善にも繋がることとなり、足下で盛んに言われている「働き方改革」を先取りしていたことになる。アサヒ工業での改善が3年で完了したことは社員と会長の協力の賜物と山梨は言うが、筆者は、山梨が学生時代に「人の役に立ちたい」という思いを基調にしたリーダー気質と、経営者の観点を持って業務に従事していたことが、組織成立の3条件をバランスよく成立させていたと考える。6.今後の抱負一般公募で決まった型枠の名称「弁慶」はローコストで工期を大幅に短縮し、更にエコで安全な工法と足場を組み合わせることで他社と差別化する商品となるが、2018年には建設工事から建築工事へと新市場に進出(図表4)する等でブルーオーシャンを模索し続けている。SRGタカミヤは既に海外拠点を持っ3 Chester Irving Barnard, 1886-1961年4 高架部の橋の部分を造る工程で、地中で橋を支える"基礎"と"橋脚"を据え付ける工事。27中小企業支援研究 Vol.6

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