中小企業支援研究vol5
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中小企業支援研究 別冊 Vol.512時代を見つめ、本質を磨き続ける老舗経営和菓子店の原点「礎の時代」前田 本日は、比較的小規模な店舗で高い利益率を実現し、海外からも注目される企業にまで成長された和菓子の製造小売店としての考え方、経営のノウハウなどについてお話を伺いたいと思います。まず、梅花亭の歴史からお聞かせください。井上 創業者は先々代社長で、私の祖父である井上松蔵といいます。新潟県出身で南魚沼市の浦佐出身です。1935年(昭和10年)に西新宿の十二社(じゅうにそう)で創業しました。十二社は現在の西新宿4丁目付近で、現在都庁があるあたりです。当時そのあたりには熊野神社や温泉もあって、遊興の場所で、店のすぐ脇には公園もあり、賑やかな街だったと聞いています。松蔵社長は、当時大変贅沢だったお菓子をいつでも食べられる和菓子屋さんになりたいという思いから、台東区柳橋の梅花亭で足掛け10年くらい修業しておりました。梅花亭はもともと江戸時代末期から続く、「どら焼き」や「焼き菓子の元祖」を創案した由緒ある和菓子屋でした。その主人が十数代目で途絶えてしまったらしく、そこの当時の職長さんが跡目を継ぎました。それが霊岸島(中央区)新川の梅花亭とその弟さんが継いだ柳橋(台東区)の梅花亭です。独立した2つの梅花亭は今でも残っていますが、血族以外で暖簾を継がせていただいたのが松蔵で、私どもの梅花亭の始まりです。前田 当時の状況をもう少しお話しいただけますか。井上 当時は次第に戦争の色が濃くなってきた時代で、配給だけでは和菓子が作れなくなってきたので、祖父は電車に乗って秩父まで行き、原材料の砂糖、小豆を仕入れ、疎開先の飯能の自宅で和菓子を作り、それを柳橋に持って行って販売してもらうという苦労をして経営をつなぎました。柳橋は六花街の一つで、料亭には芸者さんがいて、「戦争でみなひもじい思いをしているが、どんなに不景気になろうとも金持ちはいる」と祖父は話しておりました。料亭はお客様へのお土産としてお菓子を使っていたようで、柳橋に行けばどんな時代もおいしい和菓子が食べられるということで祖父も有名になり、立役者、功労者の扱いを受けたそうです。前田 飯能疎開時代に苦労をして、お菓子を作り続けてきたことが、御社の地位の礎を作り上げる結果となりましたね。池袋を選択した理由は何だったのでしょうか。井上 理由は聞いておりませんでしたが、飯能から都心に出るのに交通の便がよかったのかも知れません。当初は、裏通りの掘っ立て小屋のようなところで営業していましたが、表に出なければ商売にならないと、柳橋梅花亭のご主人に相談したところ、資金などを含め応援していただき、川越街道と明治通りが交差している場所に本店を構えたと聞いています。祖父は、「戦前のお務めが恩として返ってきた」と喜んで話をしていました。老舗企業を襲った突然の出来事、家族の絆で事業を継承井上 2代目は腕の立つ人でしたが、39歳で若くして和菓子を製造販売して83年の歴史を誇る老舗和菓子店「梅花亭」の4代目社長、井上豪氏より、和菓子業界の激動の時代を乗り越え現在まで連綿と繁栄を続け、世界から注目を浴びるようになった経営のノウハウを伺いました。社長プロフィール井上豪(いのうえ たけし)。1971年東京都生まれ。10年前より4代目を継承。2014年全国和菓子協会優秀和菓子職に認定。2015年新宿区ものづくりマイスター「技の名匠」の認定を受ける。2016年「東京マイスター」の認定を受ける。経営者インタビュー【合資会社梅花亭】梅花亭本店にて 井上社長 前田

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