中小企業支援研究vol5
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中小企業支援研究 別冊 Vol.513亡くなっています。私の実の父です。当時は「クリスマスケーキ」とか「洋菓子」が売れる時代になってきており和菓子と洋菓子を並行でやっていた時代でした。いわゆる「町のお菓子屋さん」で、奥の方では喫茶も提供していました。前田 初代から2代目に引き継がれたのは何年前でしょうか。井上 今から50年位前です。父が亡くなった時は、私はまだ10歳で、後を継ぐことができず、餡子の専門職人として一緒に働いていた父の弟(叔父)が、3代目として店を引き継ぐことになりました。私たちは、3代目社長に実の子同様に育てていただきました。3代目は40歳まで餡子を中心に作ってきており、本格的な和菓子作りは店を継いでから始めましたので、一度引退した祖父がメインのお菓子作りをやり、3代目がその作業を補助し習いながらやってきました。3代目は2代目を早くに亡くしたということから食に拘り、生活様式や食べ物を見直した人でした。「添加物なし」、「リズムよく食べる」ことを重要と考えて、実生活から「安心」「安全」に心を注ぎました。現代でこそ「安心安全」はどこでも叫ばれていますが、その先駆けであったことは評価できると思います。現在の当社経営のモットーも、「安全、安心、見て楽しく、食べておいしい」を掲げています。私も4代目として、その思想を前面に出した菓子作りをしています。前田 初代は、高くても本当においしいものを作ろうという本物志向であり、2代目はこの思想に時代の流れを組み入れ、3代目は安全安心を積み重ねたという感じですね。融合の時代、4代目の継承前田 4代目が事業承継をする際にはどのような考えがありましたか。井上 私が10歳の頃、和菓子業界も洋菓子ブームなどで大変な時代で、子供心にも何とかしなきゃという思いは強かったですね。小学校から工場に入って、高校生の頃には任される仕事が多くなってきました。でも初代が一緒に現場にいてくれたので、職人としての技術を学ぶことができました。前田 私が最初に御社と出会うきっかけを作ってくださったお母様もすごく熱心な方で、一生懸命に販売や店の演出をされていました。井上 子供が3人いて必死だったと思います。私は、大学時代は絵描きになりたくて西洋画家の大家、荻太郎のいる大学に進学させてもらいました。最初の8年間は、画家と和菓子職人の2足の草鞋を履いていました。これが今の仕事にも生きていると思います。今は町田の鶴川で、お茶会の創作菓子作りとお菓子の懐紙絵を描いています。茶道は勉強のつもりで始めましたが、今年裏千家のお家元より「宗豪」という茶名をいただきました。理想の立地を求めて心機一転、神楽坂へ前田 現在はここ神楽坂に店舗を構えていますね。一時期は有楽町や池袋でも店を出し順調に見えましたが。井上 有楽町はビジネス街で常に新規のお客様をキャッチしていくのが大変でした。他の場所もいろいろ検討しましたが、ここという場所がなかなかなく、今の店に腰を据えるまで10年ほどかかりました。ここ神楽坂を見つけた時は、父も母も私も、3人が頷きました。坂の上下に大きな寺社があって、通りが細く、渡ることが容易にできる。商店街に活気がある上、大きなスーパーが2、3軒あり、夕方になると住人の皆さんが買い物に集まってくる立地だからです。それに、ここには和の雰囲気がありました。ここしかないという気持ちでしたね。本当にタイミングが良くラッキーでした。前田 それだけ求めていたからでしょうね。局所的超激戦地での工夫井上 この神楽坂周辺には和菓子屋が10店舗あり、かなりの激戦地です。小さなお店から大手の出店もあり、どう差別化を図るかが大切です。池袋の時と同じで、店の奥で作るという形式で運営し、出来立て感を出すため店の奥に窓をつけて実演しながら販売しています。また、お客さまが直接手に取って一個から買えるようにする一方、一個からでもきちんと説明して販売しています。美味しかったらまた戻ってきてくれますから。小原 商品の特長はどのような点ですか。井上 餡にも拘っていて、お菓子毎に23種類に分けています。饅頭には饅頭の餡子、大福には大福の餡子というようにです。普通の店は、並餡、中割餡、上割餡、と三種類くらいしかやりません。とにかく豆から炊くことに拘り、渋の切り加減とかから独自の風味にするように調整しています。前田 製造工程が見えるというのは大切ですね。井上 レストランで鯛がどこ産と言われるのと言われないのとでは、味わいが違うのと同じです。前田 見せるということは大変で、お客様の目線からも奇麗にしていないといけないし、いい加減なことはできませんね。

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