View & Vision No42
33/62

3142 1971年創業、1975年開業の当社は、経営改革を積み重ねる中で、業容を順調に拡大し、そのことが地域貢献にも繫がるという恵まれた状況にあります。現在は48万市民の6%にあたる約3万人の地域生活者が、当社の所有する市内商業ビル3棟のテナント殿へ毎日ご来店・ご利用いただいており、「地域社会のインフラの一翼」を担えている自負と誇りを持っています。 しかし、前世紀の当社は、再開発ビルとして誕生時の負の遺産の克服に時間が掛かり、大部分の社員も不動産業を「不働」産業と勘違いし、創業以来26期連続赤字の鳴かず飛ばずの経営でした。その後、新しい血を入れ始めた1989年以降の経営改革努力が1995年頃から実を結び始め、経営成績が順調に好転中です。 20年前と比較して、売上高は1.7倍、所有床面積は2倍、自己資本比率は5倍、経常利益は8倍に増加しました。以下に当社の経営改革の軌跡と、生き残りの中で培った経営理念・思想をご披露して読者各位のご批判をいただき、それを次の経営改革の肥料と致したいと考えています。 市川市は、江戸川で東京都と接する千葉県の玄関口の街です。関東大震災の避難民、敗戦前後の疎開民と、高度経済成長時代に住宅を求めての移住民で、人口は倍々ゲームを続け、48万人の大都市に成長し、現在も人口が増加中です。市川駅周辺は、1975年のJR複々線化を期に行政主導の再開発が進み、戦後の闇市から変貌したマーケットに再開発ビル建設計画が発表されました。1960年代後半には市川駅北口防災街区造成組合が発足しましたが、地権者の中に反社会的勢力の存在も有ってリーダー不在で迷走した為、当時の富川市長が田平宏氏に再開発ビル社長就任を要請し、1971年に㈱市川ビルが発足しました。 行政が田平氏に白羽の矢を立てた理由は、弁護士で法律に明るく、清濁併せ呑む器量を持っていたことと、戦死を免れ生還した者の務めとして社会貢献意欲が旺株式会社市川ビル代表取締役社長市川商工会議所副会頭千葉商科大学生々塾代表田平 和精TABIRA kazuakiプロフィール1973年 東京大学大学院(工)卒業 川崎製鉄㈱入社 27年間勤続2000年 川崎製鉄㈱退職 ㈱市川ビル 代表取締役社長 就任2001年~毎年 千葉商科大学 中小企業マネジメントスクール受講2003年~現在 (スクール受講生組織の)千葉商科大学生々塾代表2011年~現在 千葉商科大学 地域連携推進 委員「不働」産業から「地域のインフラ」への脱皮・成長当社の過去と今当社創立の経緯〜再開発ビルの建設・開業写真1 市川の街(ザ タワーズウエスト45F展望台EVから撮影)

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

page 33

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です