View & Vision No42
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3342 田平創業社長が80歳となった1989年、非常勤役員として入社した婿養子(現社長・筆者)が、その後の経営改革をリードしました。製鉄所の現場管理者の経験を生かし、製造業の知恵を当社に導入し、経営改革を主導しました。その改革は、以下の六点です。 第一に、形骸化していた取締役会を年数回から毎月開催に変更し、修繕工事の競争見積導入・無駄な交際費カット等、社益優先思想で物事を判断する思想を定着させました。 第二に、人脈を使って優良ビル会社幹部から受けた教えの具現化を進めました。 第三に、ビル経営が製鉄所と同じく装置産業である事を見抜いて、営業部長を設備担当兼務としてビル設備の勉強会を毎月開き、トータル・ライフ・コスト・ミニマム思想を導入して、それ迄のブレークダウン・メンテナンスから適正予防保全に切り替えてコスト削減を進めました。 第四は、旧地権者に修繕費負担をお願いする説明会の最中、旧地権者の取締役の裏切り行為に遭遇した経験により、利益相反関係の根深さを思い知り、本問題の最終解決は権利買収しかないことを覚りました。 第五に、ダイエー本社を訪問し賃料値上げを要請した時「契約とは護られるべきものなり!」と一蹴されましたが、これも良き教訓となりました。 第六は、従来は旧地権者の利益優先思想が強かった取締役会の論議が社益優先に変わったことで、社内スタッフの改革意欲が増加して、改善意見が社内で出始めたことです。 田平創業社長死去の1992年以降の8年間は、旧地権者が社長を務めましたが、会長には創業社長の妻が就任し、改革の流れを止めさせない統治体制を維持し、権利買収によりB2階の経営権を取得し、好賃料をお支払いいただくテナント誘致成功で、開業後の1998年からは株主配当が開始できるまでに成長しました。 一難去ってまた一難、地下階の問題解決に成功した1997年以降は、核テナントダイエー殿が経営危機に見舞われました。1992年迄飛ぶ鳥落とす勢いだったダイエー殿は、阪神大震災でドル箱の神戸のお店の壊滅、土地神話崩壊によるビジネスモデル崩壊等が重なり、凋落の一途を辿り始めました。 1992年迄100億円以上、1996年迄90億円以上を確保していた市川店の売上も、その翌年から毎年6億円ずつ下落する深刻な事態に見舞われました。その頃、千葉県内のダイエー殿のお店は軒並み赤字に陥り、退店ラッシュが続いていました。この危機の捉え方で、取締役会の議論は二つに分かれました。守旧派は「昔低賃料で儲かっていた恩返しをして貰おう!」という呑気なものでしたが、改革派は「核テナント退店後の賃料半減化の地獄回避の為、当社は、超契約の思想でテナント責任範囲にも手を回し、お店の営業黒字化の為のテナント・サポートに踏み切るべきだ!」と主張しました。 その頃、旧地権者の社長が、取締役会で保留決議の6千万円の工事を独断発注する背任事件で両派の対立が深刻化し、最終的には2000年2月大株主グループの支持を受けた筆者が社長に就任し、持論のテナント・サポートを開始しました。ダイエー殿もこれに応えて、2001年秋4億円の大改装を実施され、当社も1億円強のビル環境改善投資を実施した結果、市川店の売上は反転し、核テナント退店危機を脱することが出来ました。 テナント・サポートとは、筆者が仕事と自己啓発で学んだ「卸売業のリテール・サポート」「SCM思想」新体制の発足とテナント・サポートの実行新しい血 製造業の知恵の導入で経営改革開始図1 株主配当の推移

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