View & Vision44
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15特 集女性の活躍が地域社会を変える44 関東リーグ戦の春季リーグ、秋季リーグと優勝し2部から1部への昇格を機に正式に女子軟式野球愛好会から女子軟式野球部になりました。 大学2年生の夏に全国女子軟式野球大会が魚津で開催され、日本体育大学に敗戦しましたが、入賞しました。この頃、中澤興起監督が全国大会の会長をされていたこともあり、挑戦してみないかの一声で関東リーグの学生委員長に立候補し、任命を受けました。関東リーグ戦開催へ向けて事務的な準備から大会運営に携わらせて頂きました。 この関東リーグ学生委員長を2年間務めさせて頂きましたが、これまで試合をする上で裏方の運営をして下さっていた諸先輩の方々がいたことに感謝をすると同時に、運営がスムーズに行くためにはどのような工夫が必要か考えさせられる日々が続きました。この経験が今日に活きております。 2001年にはフロリダ大学へ1ヶ月半留学し、語学の勉強だけでなく米国文化を勉強しました。当時の参加人数は20名弱で半分が女子学生でした(4年生2名、3年生5名、2年生2名、1年生1名)。個々の参加目的の多くは語学力のアップでしたが、将来的に海外との仕事をしたいと考えている、海外に移住することを考えている、家族が海外で仕事をしていて家族の勧めもあり留学を決意した、というような様々な目標を持った向学心の高い学生が集まりました。 現在も年に一度の交流がありますが、当時の目標を実践し海外で生活をしている人もおります。 中には子供にも同様に海外で語学や異文化交流をさせたいと話をしている人もおりました。 私は大学在学中に留学をすることで、海外での生活をすると共に異文化に触れ、自分の見識や固定観念を崩されました。 1ヶ月半の留学は現在の私のビジネスビジョンの構築の土台となりました。というのも日本国内で女性起業家というものはとても珍しく思われがちですが米国では珍しいものではなく、大学へ進学し専門的な知識を経て、最終的に起業する方が多いからです。 自分の意見を確立し(THINK DIFFERENT)他人とは違う意見や意思を明確に持ち、将来のビジョンも自分の中で確立している女性が多いという米国と日本との違いに触れ、自分の人生設計を見直す良い機会になりました。 2002年大学卒業と同時に宮城県気仙沼市の水産加工会社に就職をしました。地方というのもあり女性の多くは一般事務職として就職しておりました。千葉商科大学で会計学も勉強しておりましたので、将来的には事務職の中でも会社の一つの柱となる経理事務職になるかと考えておりました。しかし、職場で活躍する男性営業職への憧れと国内の商品流通を実学で勉強できることに向学心を持ち、2年目には社内初の女性営業として全国の中央卸売市場を歩き、商品流通を学ぶと共に営業販売をしました。会社のメイン食材の販売をする傍ら、新商品開発に力を注ぎました。実際に社会に出て営業職に携わり、これまで勉強してきたことと実践は大きく違うことを感じました。それはコミュニケーション能力の必要性です。ここで感じた私自身のギャップは「伝えたいことを明確に伝える」「相手の意図していることを即座に聴きとる」こと、つまり、受信することだけではなく送受信することの大切さです。小学校、中学校、高等学校、大学と進学し、講義では先生や教授の話を受身で聴くことが中心だったため、会話をする中でお互いの価値観や仕事に対する取り組み方を社会で求められたときに大きく戸惑いを感じたのを覚えております。 2006年入社4年目で水産加工会社を離職し、同年9月に現職である株式会社パートナーズを設立、代表取締役となり会社経営に携わるようになりました。当時を振り返ると、起業に至った理由はシンプルで、誰かが創った仕事を毎日こなすのではなく、自分がやりがいを感じる仕事を自ら創り、世の中に必要とされたら、どんなに素晴らしい毎日を送ることができるだろうかということでした。毎日わくわくしながら生活を送っておりました。また、宮城県気仙沼市は水産業が基幹産業になっておりましたが、次の基幹産業の設立に身を投じてみたいと考えるようになりました。その背景には幼い頃からの両親の教育も大きな影響があります。 私は3人兄妹の末っ子として育ちましたが、昔から負けず嫌いで、人見知りでもありました。 小学1年生に上がる時に父が地元大手水産会社を退職し、会社を設立したのがきっかけで兄妹でいることが多かったです。 毎日朝から晩まで両親は働いており、お盆休みや年末年始は多忙のため兄妹3人で家事を手伝い食事や洗

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