View & Vision44
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7特 集女性の活躍が地域社会を変える44の話で励まされ、心が救われる思いを何度もしてきました。女性は女性同士?の良さを引き続き大切にしていきたいと思っています。 東日本大震災から6年半が経ちます。日頃から地域の課題を我が課題に受け止め、自分たちにやれることをやってきたので、あの時も私たちは目の前の課題に立ち向かいました。地震による大きな揺れとともに全てのインフラが止まり、停電で機能を失った信号のある交差点では交通渋滞を起こしていました。それに気づいた我が社の男性社員さんはすぐに5つの交差点の交通整理をしました。女性社員たちは、地震で崩れた書類棚など整理し、暗くなって車の流れが収まった頃を見計らって会社に集まり、女性社員さんが作ってくれた炊き出しを食べながら「有事の日々が始まるよ!心して取り組んでいこう!」と伝えたことを覚えています。翌日も電車は止まっていて、東京に通うサラリーマンの方が2名大里に出勤してきました。大里に行けば何か役に立つのではという理由でした。その方たちとチラシを作り、義援物資を集め、最初に出発したのが3月19日、震災から一週間強の時でした。あちこち通行止めで行っては引き返しでたどり着いたいわきの避難所で物資を下ろしましたが、道中の景色はこの世のものでなかったことを今もはっきりと覚えています。あれから何回行ったのでしょう。その数は200回を超えました。述べ3000人近い人たちをボランティア活動にお連れしました。今も通い続けています。たまたま我が社には二台のマイクロバスがあり、このバスで物資を運び、みんなを乗せて東北のボランティアに行っています。日中の仕事をした後の夜11時、地域の方々を乗せて出発し、明け方には陸前高田を始め、南三陸や石巻に着き、物資を配ったり、ボランティアをしたりの夕方、向こうを出発すると、夜中の11時は大網に着く。丸一日で行って帰って来られるからみんなでボランティアに行こう!そう呼びかけて、回を重ねてきました。今度の震災で2つのことを学び、その2つをみんなと共有するために。1つは、震災が必ずあるという覚悟です。日本は四方八方を海に囲まれ四季があり、山という山には8割以上木々が生えて、自然の恩恵をどの国よりも受けて暮らしを立ててきました。その反対側にある自然の怖さ、恐ろしさを昔の日本人はしっかり受け止めてきたのに、いつの間にか経済優先、科学へのおごりでその怖さを受け止めなくなってきました。今回の震災は日本で暮らすという覚悟、つまり災害が必ずあるということをもう一度受け止めなければならないと思ったからです。ボランティアで被災された方々の肩を揉みながら、「ご家族ご無事でしたか?」と尋ねると必ず、「だれかれがまだ見つかっていない」、「亡くなった」などの会話が当たり前で、この人に罪はない、日本はその確率が多いんだと思いました。もう1つはあちこちの避難所を巡っていて、なぜここは温かいものが食べられるのにここは配給のお弁当だけなのか、なぜここはボランティアの手が入っているのにここには誰も来てないのか?時系列で見てみると、仮設住宅でも同じことがあり、また今で言うと復興住宅がなぜこんなところに立っているのか、またなぜここは木の住宅なのにみんなで住んでいられるのか、など、その違いを見てきた中でわかったことは、いざとなって震災が起こり生きていたらやれることをやるという覚悟が大事だということ。つまり、寒ければ薪を集めて火を燃やして温まるということができるところでは課題は次に移るが、誰かがなんとかしてくれると人任せにしたところでは課題がそのままになる!その違いが一つ一つ現れ、美しい三陸海岸に壁が立つところとそうでないところができるのだと思ったのです。だから「震災は来る」という覚悟と「生きていたらやれることをやる」という覚悟、この2つの覚悟さえ出来ていればあとはすべてが応用編、つまり地域防災は、この2つを覚悟して生きている人が増えることが大事なのだと思い、地域の人たちに東北ボランティアに誘い、向こうでボランティアをしながら様子を頭に入れ、帰りのバスの中で、「もしもの時はみんなで頑張ろうね」と声をかけてきたのです。もう1つが原発です。私は商売人として原発の是々非々を口にすることはいけないことだと思ってきました。しかし東北ボランティアに行く時必ず福島を通りますし、そこに行くと急に放射線量が高くなります。美しかった田畑もセイタカアワダチソウが生え、柳が生え、無惨な景色に胸が痛みました。未だに帰ることのできない人たちがたくさんいること。いったいこの原因は5・6年前の東日本大震災から学んだこと、やり続けていること5

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