view&vision48
34/74

3248木を見上げながら「あ、太宰治が自殺した玉川上水か」と気づき、第一希望の大学に不合格になっていた私はさらに陰鬱な気持ちになった。しかし、その曇り空に弱々しく伸びている枝を見て「この枝も春になると緑いっぱいになるんだろうな」と思うと、めきめきとわきあがる生命力を感じた。そうすると、太宰はなぜこの生命力溢れる場所で自殺したのか、不思議になってきた。ここが新緑でまぶしくなる頃、私はここで学生生活を送っているのかもしれない。足取りは軽くなった。私は、玉川上水で見た枯れ木を、実技試験の絵に描き、合格することができた。それから9年間、新緑の光景に励まされながら、映像制作に明け暮れた。 ここで出会った生涯の師が、今野勉教授(当時)である。今野先生は、1959年にラジオ東京(現、TBS)に入社し、1970年、日本初の映像制作会社テレビマンユニオンを創設した。そして83歳の現在も、最前線で活躍するテレビディレクターだ。テレビの草創期から、テレビにしかできない表現とは何かと模索し、素晴らしい番組を世に送り出している。 2000年の大学3年生のとき、今野先生から「学生映画が秀でるポイントはロケ地だ」という指導があった。「それなら海も山も夕日も美しい愛媛だろう」と即座に考えた。なかでも、愛媛にある離島、睦月島の光景は特別に思い出された。 睦月島は、松山市郊外にある高浜港からフェリーに乗り、30分ほどのところにある。周囲13キロ、人口200人程度(現在)の小さな島だ。ここには父方の本家があり、いまでも数人の親戚が住んでいる。私はここで生まれ育ったわけではないが、幼いころ、夏休みをここで過ごすことが、最も幸福な時間だった。きょうだいや大勢のいとこたちと、海水浴場で遊び、釣った魚や、伯母たちがつくった料理を食べ、墓参りで送り火を焚き、灯籠流しを見送り、盆踊りをして、花火をし、満天の星空を見上げて、蚊帳のなかでゴロ寝する。いまとなっては映画のような夏の光景だった。睦月島 南側にある港を中心に、左右に集落が広がる睦月島での作品制作 そこで指導を受けた大学3年生のとき、その睦月島を舞台に短編映画「なれらい」(2000年、18分)を制作した。東京で挫折した青年が、故郷の風景と友人に励まされ夢を取り戻す物語。この制作では、自分が書いた脚本のセリフを撮り終えることに精一杯で、演出もろくにできなかった。しかし、ラストシーンに撮影した夕日がとても美しく、撮影終了後も、みんなと眺めていた。この感動が、愛媛で映画をつくり続ける原点となった。 その後、大学院に進学し、修了制作「こぎいでな」(2003年、60分)も睦月島を舞台にした。愛媛で映画をつくり続け、故郷の魅力だけではなく、課題も感じるようになった。過疎化により、地域の文化や産業が衰退していく現状に気づいた。未来につながっていくために、何を考え、行動すべきなのか、それがテーマとなった。このとき、自分が学んできたことで、できることは映画をつくることだった。自分と映画に何ができるか、それを賭けて取り組んだ。  島に暮らす14歳の少女が、少年式(昔の元服にならった愛媛の風習)を迎え、将来について考えるという物語にし、実際に島に暮らすはとこが主人公を演じた。東京から従兄がカメラを持ってやってきて、架橋の問題に揺れる島の現状を映し出すという架空の設定をし、盆踊りやミカン栽培の様子など、実際の出来事や風景を交えた「ドキュメンタリードラマ」という手

元のページ  ../index.html#34

このブックを見る