view&vision48
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3348法で映画にした。 完成後、島の公民館で上映会を行った。島民の9割にあたる人たちが見てくれ、笑いあり涙ありの上映会となった。上映後、当時13歳の主人公を演じたはとこは、みんなの前で「睦月島がこんなに美しい場所だって、映画で知りました。これからも睦月のためにがんばります」と涙ながらに話し、みんなも涙を流していた。私も「映画は、人々の感動を呼び、何かを変えられるかもしれない」という期待と達成感を得た。 その後も、映画制作を通してさまざまな経験と思索を重ね、2011年から、三たび睦月島を舞台に「今日、この島に私がいます」(以下、「しまわたし」)というプロジェクトに取り組んでいる。これは、睦月島に数日間滞在し「やりたいことをやり続けている状態」を作品とする試みだ。訪ねてくる友人たちを「出演者」と位置づけ、私は撮りたいと思ったときだけ、カメラを向ける。島に滞在する数週間を、第1話、第2話…と、連続した物語として捉え、今年2019年で第9話となった。以下、この「しまわたし」までの経緯をもう少し書く。自主映画の限界 今野先生の指導を受け、2000年から愛媛を舞台に自主映画制作を続けてきた。「なれらい」のあと、正岡子規と夏目漱石の若き日の友情を描いた映画「石に漱がれホトトギス」(2001年、30分)や、父と母の出会いの映画「私が生まれた日」(2002年、30分)、愛媛の戦争遺跡を舞台にした映画「日-hitsuki-月」(2007年、60分)など10本ほど制作し、愛媛各地で上映会も30回以上行った。 故郷を舞台に映画をつくることは、自分の生きてきた場所を見つめ、自分はどのように生きてきたか、他者とどのように関わってきたのか、そして故郷に対して自分は何ができるか、それを頻繁に自問することだった。その問いに自分なりに向き合いながら答えを出していく。この過程そのものが、自分にとってかけがえのない経験と学びと充実感となった。 しかし、2009年頃、自主映画制作に限界を感じた。それは「映画」という表現方法の限界だった。自主映画は、出演者やスタッフの善意のボランティアで成り立っていることが多い。私もいわゆる「顎足代」(主にスタッフへの交通費と食費)は資金調達できたが、それ以上のことはできなかった。だから出演者に「明日、アルバイトがあるから撮影に来られない」と言われると、残されたスケジュールなどを考慮し、数年かけて書いた脚本を書き換えなければならない。さらに、撮影機材の不調や天候不順などにも左右される。そしてまた書き換え。当然物語の整合性がとれなくなってくるので、また書き換え。そうして、脚本を書き上げたときのイメージと、実際に撮影できる映像が、波の漂いのように近寄ったり離れたりする。私にとって映画制作とは、なんとかしてその波間の中間点をとるために、トラブル処理をこなすことだと感じるようになった。 トラブル処理自体は苦ではない。むしろさまざまな出来事と出会いがあり、やりがいもあり、楽しかった。しかし、つらかったのは「自分の表現したいことと、実際の作品が、周囲の都合により乖離してくること」だった。そこで「自分の表現したいこと、自分の表現とは何か」との根本的な問いに立ち戻った。 そもそも「映画」とは、劇場(現在は、インターネットの動画サイトも含む)で公開されるためにパッケージ化されたコンテンツとするならば、私は「映画」にこだわる必要はない。むしろ「映画」をつくることに固執してしまい、たかだか60分程度の映像データに押し込むために、都合のよい起承転結の物語を求め、故郷に向き合うこともせず、バッサリ切り取っていたのではないか。「故郷に向き合う」とは何か、自分の「おもい」がもっと「かたち」となる表現とは何か、そのことを考えるようになった。故郷に向き合う 自分の「おもい」を「かたち」に 「しまわたし」を着想したころ、私は一橋大学で任期付の助手として勤めていた。数年の任期が終わったあとの進路は確定していない。愛媛に戻って作家活動を続けるのか、研究の道に残れるのか、それとも違う道があるのか、悩み迷っていた。

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