view&vision48
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3448 2003年に「こぎいでな」を制作し「映画は地域の課題を解決できるかもしれない」と手応えを感じたものの、この考えは甘かった。あれから十数年経ったいま、睦月島の過疎はより深刻だ。発着するフェリーの本数も削減され、海水浴場もなくなり、小中学校も閉校となった。崩れかけた家屋や、雑草の繁茂する畑が目立つようになった。 映画のようだった光景が、そのような寂しいものに変わっていくのには、目を背けたくなった。自分にとってかけがえのない思い出をつくってくれた睦月島。睦月島には、人を幸せにする力があった。いま、その力を失いつつある。その睦月島に対して、「いま」の「私」ができることは、かろうじて、夏の数日間「ここにいる」ということだけだった。「睦月島は自分にとって大事な場所だ」という自分の「おもい」を、「ここにいる」という「かたち」にし「今日、この島に私がいます」というメッセージを送る。それが「しまわたし」である。 改めて考えると、睦月島はこの試みにもってこいだ。島には、30年前、大工の父が、親戚の農地を借り建てた小さな家があり、それを拠点にできた。数人の親戚も住んでいるし、島民は、みんな私を知っている。カメラを持ち、多少奇異なことをしても「また映画をつくっているんだろう」とおおらかに見てくれている。30年前に建てた小さな家。囲炉裏があり、そこで魚や肉を焼いて食べた。少し小高い場所にあり、睦月島が一望できた。「しまわたし」8年間の物語2013年 7人の高校生ほか出演者たちと 今振り返ってみると、2011年〜15年を第一部、それ以降を第二部の物語として捉えることができる。 「しまわたし」を始めた2011年、私は島で過ごす楽しさを伝えたくて、SNSなどを使い、積極的に情報発信した。かつて私たちがそうしていたように、出演者たちとひたすら遊んだ。海水浴、スイカ割り、釣り、バーベキュー、ピザづくり、コスプレ、花火、星空観察、肝試し、鬼ごっこ、猫探し…人が人を呼び、出演者は年々増えていった。5年間で、のべ100人を超える出演者数となった。 なかでも、知人が顧問を務めているある高校の美術部員7人の物語は印象深い。睦月島に、制服姿の高校生が7人も歩いている光景は数十年ぶりだろう。それだけでも祭りのような晴れがましさがあった。また彼らが帰りのフェリーに乗るとき、瞬間的に大雨が降り、去っていったら晴れ上がった。港の水たまりに青空が映り込み、彼らの物語のエンディングのようだった。 また年数を重ねることによって、気づくこともあった。それは、普段の生活にはない「待ち」の時間に対話が生まれることだ。フェリーが着くまでの時間、魚が釣れるまでの時間、火が起こるまでの時間、潮が満ちるまでの時間…。そうした時間に、出演者たちは何となくお互いの話をはじめる。また、ふらりとやって来る私の親戚たちは、出演者たちに、流暢な睦月弁で「おんしゃーら、このなぁーんもない島に、なぁんしにきたんいうんでぇ?(あなたたち、この何もない島に何しに来たの?)」と聞き、昔の島の様子を語って

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