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4448トピックス2.利根運河および利根運河会社の歴史的推移近世までの日本において、水運は唯一の大量輸送の手段であったといっても過言ではない。陸上交通、すなわち家畜(馬・牛)による輸送もその一翼を担ってはいたが、河川舟運は、陸上交通に対して、大量の物資の積載が可能なこと、運賃が低廉なこと、という2点において、圧倒的な優位性を保持していた1。関東においては、利根川および江戸川の水運が重要な運送ルートであったのだが、この両河川のルートは、人為的に造られたものである。1590年、豊臣秀吉の命で関東に移封された徳川家康は、江戸をその本拠地に定めた。このころの利根川は、東京湾に直接注いでいた。現在の埼玉県栗橋付近から東京湾にかけては、利根川だけでなく、荒川・渡良瀬川も入り乱れて流れていたため、江戸では洪水被害が頻発していた。これを憂慮した家康は、家臣の伊奈忠次に命じて、関東一帯の大治水工事を行わせた2。忠次は、「利根川のような大河を江戸の近くに流しておくのは危険であり、東へ追い流すのが得策である」と考え、後に利根川の東遷と呼ばれる大工事を開始した。工事開始から約60年後の承応3(1654)年の完成時には、利根川は河口を東側に付け替えられ、現代の地形のように、銚子から太平洋に注ぐようになった。また、この治水工事の一環として、江戸川は、関宿(現千葉県野田市西北部)で利根川から分流して東京湾に流れる放水路として整備された。こうして、江戸初期には現代とほぼ同じ利根川と江戸川を結ぶ流路が形成され、江戸の地は、利根川の氾濫による水害から免れるようになった。だが、この大治水工事は元来水理に反するものであった。関宿~東京湾は15里(約59km)しかないのに対し、関宿~銚子口はその倍の30里(約118km)もある。従って付け替えられた利根川の勾配は緩慢になり、利根川中流域・下流域は、出水の際は氾濫しやすくなるという禍根を残すことになった3。利根川-江戸川ルートの目的は、洪水対策だけではなく、江戸幕府開府で大都市になりつつあった江戸への交通網の整備も重要な目的であった。大消費地江戸の需要を満たすためには、北関東・東北および北海道の生産物を運輸してくることは必須の条件であった4。また、豊臣政権による太閤検地以後の兵農分離・石高制による廻米(年貢米の廻送)も、運輸貨物の増加に拍車をかけた。江戸時代前期頃までは地方の貨幣経済は未発達であったため、北関東・東北の諸藩は、年貢米を換金するためにその大部分を江戸まで廻送せざるを得なかった。北関東方面の荷物は、鬼怒川、小貝川、霞ヶ浦等から利根川に入り、関宿を経由して江戸川を下ることで江戸との交通を確保していた。東北および北海道方面の荷物は、海運で東北の太平洋岸を南下した後、難破の危険を避けるため、途中で舟運に積み替えられた。利根川東遷以前は、那珂湊で荷下ろし、そこから涸沼に入って一旦馬に積み替えた後、北浦や霞ヶ浦といった湖沼から再び舟運に積み替えて、当時関東平野を東流していた常陸川筋を遡上し、再び流山付近までの陸送を経て、太日川(渡良瀬川の下流部)・小名木川を川船で下って江戸に入った。東遷以後は、銚子から直接1本の川筋で、利根川~関宿経由~江戸川というルートが主流となった5。1671年には河村瑞賢により、幕領信達地方(現在の福島県福島市・伊達市)の廻米を、阿武隈川で川下げし、荒浜で海洋船に積み替えてそのまま直接江戸に乗り入れる東廻航路(東廻海運)が開発されていた6。東廻航路はより安価であったが、黒潮の流れに逆らいつつ、海の難所である銚子岬先の犬吠崎沖や房総半島先の野島崎沖付近を通過する危険を、完全に克服していたわけではなかった。またその航法は、房総半島南下後、一旦伊豆半島の下田まで行き、風待ちをして江戸に入るというものであり、風待ちで日数が左右される欠点もあった。より安全な河川舟運を使用する銚子・関宿経由ルートの需要は、衰えることはなかった。こうして、利根川-江戸川ルートには多くの貨物と旅客が行き交うようになり、銚子、関宿をはじめとする沿岸の荷物積み下ろし地は、河岸(カシ)と呼ばれ、その地域の経済の拠点として発達した7。ところが、この関宿を経由する利根川-江戸川ルートの舟運は、利根川東遷が実現した直後から、航路障害の発生という問題を抱えていた。人工的に川の流れを変えたことの影響からか、利根川中流域には上流から流れてきた土砂が堆積し、浅瀬や中洲の形成がみられるようになり、水量の少ない渇水期には船の通航ができない状態になった。さらに、1783年に浅間山が噴火し、泥流の流入や降灰によって利根川の河床が急激に上昇した

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