view&vision48
47/74

4548トピックス後は、浅瀬や中洲による航路障害の発生はさらに顕著になった8。航路障害の対策がとして考えられたものの一つが、運河の開削であった。江戸時代後期になると、航路障害の発生する利根川中流域を避けて、利根川と江戸川を手前のより短い距離の運河で結ぶということが考えられた。だが、江戸期にはこの計画が実現することはなかった9。時代が明治に移り、近代化と人口増加によって、首都圏に流入する貨物や旅客の量も急増したが、利根川-江戸川ルートの欠陥は解消されないままであった。ここにきて、江戸後期に頓挫した、運河による利根川-江戸川舟運の増強策が、再び注目を集めることとなった。運河開削計画を再び世に出したのは、茨城県会議員であった廣瀬誠一郎であった10。下高井村(現茨城県取手市)で代々名主を務める家に生まれた廣瀬は、利根川と江戸川を結ぶ利根運河の開削が地域の発展に極めて有益であると考え、明治14年(1881年)旧幕臣で当時茨城県令を務めていた人見寧に、利根運河開削の必要性を申し入れた。これに同意した人見は、内務省に運河開削を具申し、これを受けて内務省は明治15(1882)年、当時治水工事のエキスパートとしてオランダから招聘していた、御雇い工師デ・レーケに、実地調査を命じた。人見は、明治17(1884)年、運河開削を含む、茨城県の5大工事の計画書を内務、大蔵、農商務の各卿に提出した。この計画は、①利根川-江戸川間の連結運河開削(=後の利根運河)、②涸沼-北浦間の運河開削、③那珂川-久慈川間の運河開削、④久慈川上流の整備、⑤那珂湊港の改修、というもので、茨城県の産物を東京に円滑に運ぶために、久慈川、那珂川、涸沼、北浦、利根川、江戸川を舟運でつなぐという、大規模な計画であり、利根運河はこの5大工事の1番目として含まれていた。11政府側では、デ・レーケに代わって同じオランダ人の御雇工師ムルデルが、運河予定地の調査・実地測量に従事していた。ムルデルは、調査の結果、「江戸利根両河川三ケ尾運河計画書」を、明治18(1885)年2月、内務省三島土木局長に提出した12。この計画書で、後年実現する利根運河のルートである、利根川沿いの船戸村(現千葉県柏市)から江戸川沿いの深井新田村(現千葉県流山市)までの約8キロを、運河開削可能なルートとして指定している。ここにきて障害となったのは、運河開削予定地を管轄する千葉県令船越衛が、運河開削に反対を表明していたことであった。理由は、費用が膨大になること、加えて、千葉県が利根川流域と江戸川流域を、運河ではなく、鉄道(フランス人ドコービルが開発した軽便鉄道)によって結びつけようと計画していたことが、反対の理由であった。人見と廣瀬は船越の翻意に成功し、明治18(1885)年6月、千葉県と茨城県の間に、運河開削調査のための「江戸利根運河協議書」が締結された13。ところが、明治18年7月、運河計画を進めていた人見が、加波山事件(茨城県内の加波山で発生した急進的な自由民権を要求する暗殺未遂事件)の責任を問われ、茨城県令を免官されてしまう。後任の茨城県令島惟精は、運河計画に賛同して運河開削委員会を設けたのだが、明治19(1886)年5月に県令を辞してしまう。島の後任の茨城県令安田定則は鉄道推進論者であったため、運河の必要性を説く廣瀬の意見に賛同しなかった。廣瀬は、国や県が主導する運河開削を断念し、明治19年8月北相馬郡長を辞職し、民間の株式会社による運河開削を志した。廣瀬は、元茨城県令の人見寧、茨城県土浦出身の色川誠一、土木建築業者・投資家の高島嘉右衛門らの協力をとりつけ、ついに明治20(1887)年4月10日、利根運河株式会社設立の発起人会を開催した。利根運河会社は、同年4月12日、1株50円で8,000株の株式申し込みを受け付けはじめたが、翌日4月13日の正午には満株となる盛況であった14。ちなみに、当初から運河建設に奔走した廣瀬、人見と、2人の離職後も長く運河事業に携わった色川は、「利根運河の三狂生」と呼ばれている。中でも、廣瀬誠一郎の貢献が最も大きかったと考えられている。明治41(1908)年に『利根川治水考』を著した根岸門蔵は同著の中の「利根運河前後考」で、「廣瀬誠一郎氏アツテ利根ノ運河成ル」と述べている15。また、前述の 北野・相原1989『新版利根運河 利根・江戸川を結ぶ船の道』でも、事実上、運河事業最大功労者は廣瀬ではないかと述べられている16。人見と色川が他の事業にも携わっているのに対し、廣瀬は明治19年以降、利根運河会社にだけ専念し、明治23

元のページ  ../index.html#47

このブックを見る