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4648トピックス(1890)年3月18日に利根運河の通船営業開始を見ることなく病没している。利根運河会社は明治20(1887)年5月9日、千葉県知事に「江戸利根運河開削願」「利根運河特許請願条件」を提出し、同年11月10日に「利根江戸両川間運河開削免許命令書」として交付された。この免許は、運河の建設および建設後の通行料の徴収・運河会社による運河の運営を認めたものであったが、免許交付後6ケ月以内の着工と着工後24ケ月以内の工事完了、違反した場合は免許取り消しと会社費用での原状回復を義務付ける等、厳しい条件も課されていた。しかしながら、金銭面での公的援助は得られなかったものの、内務省が治水工事の技術指導のためにオランダから招へいしていた御雇工師ムルデルの派遣や、官有地の無料使用等、国や県の様々な保護の享受を可能としていた。民間会社に利根運河の建設・運営の免許が下された背景には、明治4(1871)年に公布された太政官布告第648号の影響があったと考えられる。同布告は、国家の財政状況が厳しい中で、近代国家の基礎作りのために薩長藩閥政府が出したものであり、投下資本回収の範囲での有料制を認めることで、民間資本による社会資本整備を促していた。明治20(1887)年11月、利根運河会社は株主総会を開催し、初代社長に人見寧、理事に廣瀬誠一郎、色川誠一らが選出された。同年12月には会社定款が千葉県に認可され、利根運河会社は正式に設立したが、運河完成までは様々な困難を生じた。開削許可で示された運河工事の着工期限は明治21(1888)年5月10日であったが、運河開削用地の買収や工事請負人の選定に時間を要し、実際の着工は9日遅れの5月19日となってしまった。工事は、3つの区間に分けられ、それぞれ入札により請負人を決定した。運河を設計したムルデルは、予想される難工事を遂行するため、確かな工事技術を有する大会社(日本土木会社)が施工することを希望していたが、日本土木会社は落札に失敗し、工事能力の劣る低額の請負人が落札してしまった。ようやく着工した後も、工事の進捗は遅々として進まなかった。理由は、①工事全体がほぼ人力による掘削で、軟弱な地盤の開削や、運河の下に悪水を流すための樋管の工事等、技術的に難しい工事であったこと、②それに比して低額で落札した工事請負人の施工技術が低かったこと、③さらに工事請負人のモラルが低く、施工の前貸金を会社から支払われていたにもかかわらず、計画的な工事を進めていない有様であったこと(結局、この前貸金23,000円に対する工事は行われず、会社の損金となってしまう)等であった。このような工事の遅延に対して、会社経営陣は有効な対策を打てずにいた。工事の進行および工事請負人の管理ができていない会社役員の責任を問う株主の声が大きくなり、明治22(1889)年5月23日人見寧初代社長は退任し、代わって志摩萬次郎が二代目社長に就任した。志摩萬次郎は、代言人(弁護士の前身の制度)を経て多くの事業に携わっていた経営者で、明治21(1888)年夏頃から運河会社の株主となっていた。志摩は、工事遂行能力のない工事請負人を交代させ(第2区は当初ムルデルが希望していた日本土木会社に変更)、費用の節減、役員給与の返上等、会社の立て直しを着々と進めた。また、工事の遅延により乱高下していた株価について、作為的な株の売り込みに対抗して、株価の安定を図った。さらに、内務省に対しては、会社の窮状を訴えるとともに工事費および工事期限の超過について陳情した。こうした志摩社長の粉骨砕身の努力により、明治23(1890)年2月、延べ約220万人の人力が投入された大工事は完了した17。但し、当初の予算の工費は40万円(募集株式で集めた1株50円×8,000株と同額)であったのだが、結局約57万円を費やしてしまった。原因は、水堰の新設(洪水時に利根川の増水が利根運河を通して江戸川の堤防を決壊することを懸念した埼玉県知事の要求で、運河の利根川河口付近に新設)や、物価の高騰、土捨て場の費用や請負人変更による費用、前貸金の貸倒れ等、予算外の出費がかさんだためである。明治23年3月25日、利根運河は通船営業を開始した18。同年9月、工事完了と営業開始を見届けた志摩萬次郎は社長を退任した。だがこの時、約17万円の予算オーバーにより、銀行(安田銀行他)からの借入金、日本製鉄株式会社への資材費未払い、および日本土木会社への工事費未払いという問題を抱え、会社の財政は危機的状況にあった。この開業直後の難局に貢献したのは、当初は検査員として会社に参画していた今村清之助であった。今村は、株式仲買人から今村

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