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4748トピックス銀行を創立し、各地の私鉄の発起人にも名を連ねていた人物で、志摩社長の退任と前後して利根運河株式会社の株主になっていた19。財政危機は、債権者による運河収益金・本社財産の差し押さえ、強制執行等、訴訟事件にまで発展していたが、今村は安田銀行、日本製鉄、日本土木とも示談に持ち込んだ。負債については、株主に1株につき20円ずつ追徴することで弁済に充てると同時に、以後毎月利益配当をすることを、明治24(1891)年に決議した。これにより、明治25(1892)年4月1日、資本金は40万円(額面50円8,000株)から56万円(額面70円8,000株)に変更されたが、後の明治29(1896)年1月11日、1株につき20円を放棄する減資を実行し再び資本金40万円(額面50円8,000株)に戻している20。今村は、明治23(1890)年秋に発生した大洪水による堤防決壊に対しても色川理事とともによく対応し、明治25(1892)年1月には取締役に就任した。明治28(1895)年8月には、資本金償却の計算がたたないことを理由に、千葉県庁に許可されていた営業年限を60年から99年に延長することを請願したが、これは頓挫している。また、開業後間もない当時は、堤防の保護を理由に汽船の通航は延期されていたが21、内国通運会社・銚子汽船会社・木下町吉岡汽船会社と汽船運河通航特別割引契約を結び、明治26(1893)年4月1日から汽船の運河通航を開始させた。今村は明治35(1902)年に死去するまで取締役を務め、会社経営の安定に貢献した22。財政上の問題による倒産の危機はあったが、開業当初の利根運河株式会社の営業は順調であった。運河会社の収益は、運河を通る船舶から徴収する通船料であった。運河の開通により、東京へ向かっていた船舶は、航路にして約38km、日程においても3日を1日に短縮できるようになり、経済上のメリットもあったため、明治40年代初頭まで運河の通船数および会社の通船収入は堅調に推移していった。ところが、通船数は明治40年代以降、急激に減少し始める。その理由として、まず陸上交通の発達が考えられる。利根運河および利根川-江戸川ルートの周辺では、日本鉄道土浦線(友部〜田端間)、成田鉄道(佐倉~成田間、我孫子~成田間)、総武鉄道(銚子~本所間)、軽便鉄道野田線(野田~柏間)、日本鉄道東北線(青森~上野間)等の鉄道が、明治20年代末~明治40年代に次々に敷設されている。だが、陸上交通の発達だけが通船数減少の原因ではなかった。最大の主因は、航路障害であった23。運河開削以降、利根川・江戸川の渇水が頻繁に発生し、渇水期には運河の通航が全く途絶するという事態であった。このため、会社は土砂の浚渫に多くの費用を投じ、政府にも浚渫船の貸与等、援助を求めていた。利根川-江戸川ルートの航路障害の回避のために建設された利根運河が、新たな航路障害のために難渋するという皮肉な結果になったわけである。また、たび重なる自然災害にも苦しめられた。明治29(1896)年の大洪水では、それまで江戸川から利根川に流れていた水流が、利根川と江戸川の合流点の河床の上昇により、以後は利根川から江戸川へと流れが逆転するという影響まで受けている。これらの洪水のたびに復旧工事に費用と時間を要することとなった。航路障害による不安定な運航のため、速達性の要求される貨物は、陸上運送に流れていった。それでも、水運はコストの面では安価であったため、体積がかさみ速達の必要がない、ワラ、ムシロ、縄などの軽量品の通航は漸増していた。また、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災では、利根運河も被害を受けたが、浚渫により2日には疏通が可能となった。鉄道は不通となったため、常総地方からの食糧・薪炭・建築材料等の支援物資は、舟運で利根運河を通って東京へ廻送され、救援と復旧に多大な貢献をした24。通船数の減少による収入の減少と維持管理費支出の増加により、大正期に入ると会社の経営は大変厳しいものとなっていた。会社は、浚渫や洪水による復旧工事に関して政府や県に何度も援助を請願し、こうした援助なしでは運河事業自体成り立たないような状況であった。一方で、利根川-江戸川舟運ルートの需要は、速達性の貨物は陸上交通に奪われていたものの、沿岸の廻漕店や船主は運賃の切り下げで鉄道に対抗したため、関東舟運の需要は完全になくなっていたわけではなかった。このような状況で、利根運河の国有化が画策された。明治44(1911)年9月に利根運河国有期成同志会が設立されたが、その趣意書は、元々利根運河は県の事業として計画されたものであり、鉄道が国有化されている今、政府が利根運河を買収して、無料通航による

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