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4848トピックス沿岸振興を図るべきであると主張している。前述の『利根川治水考』を著した根岸門蔵は、明治末期から大正中期にかけて、利根運河国有の請願書、上申書を衆議院などに提出している。また、地元の茨城県会議長は、利根運河株式会社の資力では完全な水害予防工事ができないことを強調して、国営の意見書を大正2(1913)年12月に内務大臣に提出しており、千葉県会議長も同内容の意見書を大正6(1917)年12月に提出している25。昭和に入ると、軍事上および治水上の必要性から利根運河の国有化を後押しする動きが強まっていた。昭和初期には利根運河開放期成同志会が組織されている。会則から、回漕業者や船主等が利根運河を自由航路として開放することを企図したことが推察される26。昭和15(1940)年頃結成された利根運河国営移管期成同盟会は、「利根運河株式会社は財政がぜい弱で水運交通及び水害防備の責務が果たせておらず、軍事上の水上運送の確保は緊急を要しており、利根運河の国営移管の実現を目指す」ことを目的としている27。太平洋戦争の影響で、水運の軍事上の必要が高まっており、昭和15年4月には海軍および千葉県によって利根運河の浚渫が行われている。昭和10(1935)年9月に発生した大洪水では、堤防の決壊で大きな被害が発生し、会社は周辺の村々に見舞金・水防費を支払っている。利根川本流は、明治中期から多発した洪水被害を受け、政府による長水工事(洪水防御工事)が施工されていたが、利根運河は利根運河株式会社が管轄していたため、洪水に対する備えは他の利根川沿岸地域に比べて弱いものとなっていた。住民の生活の安定のために利根運河の治水は必須の課題となっており、これを受けて内務省は、昭和14(1939)年に策定した「利根川増補計画」の中に利根運河を組み込み、運河に洪水対策のために利根川から江戸川へ水を流す放水路としての機能を付加するための改修工事を行うことを決定した。ところが、昭和16(1941)年7月22日に発生した洪水により、利根運河は壊滅的な打撃を受けてしまう。利根川河口付近の水堰および堤防が広範囲に崩壊、運河の流れは完全に途絶し、周辺の村々への被害も甚大なものとなってしまった。会社に運河を復旧する資力はなく、昭和17(1942)年1月21日、内務省は利根運河株式会社に対し225,156円での運河およびその付属物件の買収を提示し、同年1月25日、会社は臨時総会で売却を決議、2月23日、利根運河会社は解散した。同時に、関東舟運のルートとしての運河も終焉を迎えた。買収した内務省は、利根運河を舟運の航路としての運河としてではなく、利根川水系の一つの河川として位置付けていた。昭和18(1943)年1月22日、千葉県は元利根運河筋を利根川の派川と認定する(派川利根川)告示を出し、「利根運河」という名称は行政上消滅する。派川利根川(旧利根運河)は、前述の利根川増補計画で位置づけられたとおり、利根川の水を江戸川に流す放水路として整備されるはずであった。しかし、戦中の混乱の中、運河の利根川河口付近にあった水堰跡地は土手で閉塞され、水流は途絶したままであった。派川利根川(旧利根運河)は、利根川からは完全に切り離され、周囲から流れ込む水を江戸川に流す遊水池のようになってしまった。その後、昭和20年代~30年代は、周囲に農地が多く、流れ込む水量が豊富だったため、旧利根運河はきれいな水路状の池のような状態であった。しかし、昭和30年代後半から宅地開発により都市化が進み、水量が減る一方で生活排水が流れ込むことで、旧利根運河は汚れた川になってしまった。昭和40年代後半になると、旧利根運河に新たな役割が与えられた。急速に増加した首都圏の水需要に対応するため、利根川下流部と江戸川を水路でつなぎ、東京・千葉・埼玉の市町村に給水する「北千葉導水路」建設が昭和49(1974)年着工されたが(平成12(2000)年完成)、この計画の完成前の暫定的な給水路(野田緊急暫定導水路)として、旧利根運河が利用されることになった。昭和48(1973)年、野田緊急暫定導水路事業が開始され、昭和50(1975)年、導水路としてよみがえった旧利根運河には、34年ぶりに利根川の水が流れ込んだ。平成2(1990)年、通水100年を契機に、名称が正式に「利根運河」に戻された。現在の利根運河は、導水路としての使命も終え、市民の憩いの場としての役割を担っている。歴史的な遺産としての価値を評価する声も高まり、平成19(2007)年には経済産業省が利根運河を近代化産業遺産に指定している28。今回は、利根運河と運河会社の歴史的推移をたどっ

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