時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

イギリスの有力な経済誌「エコノミスト」は最近号で次のように書きました。

—1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊した。この瞬間、歴史は大きく転換した。共産主義と資本主義の戦争が終わり、西欧流の自由な民主主義とグローバルなオープンマーケットの時代が来たのだ。ところが今年、つまり2016年の同じ11月9日、(トランプ氏がアメリカの次期大統領に選ばれたということによって)歴史はベルリンの壁崩壊以前に戻ってしまった。

わたしたちは今年6月のイギリスの国民投票の結果、つまりイギリスがEU(欧州連合)を離脱(Brexit)するという歴史的な国民投票の結末に度肝を抜かれました。これについては当欄でもふれましたが、おおげさにいえば世界中の人々が思いもしなかったことが起こったのでした。
今回の衝撃は大方の予想を覆したことでも、世界の政治経済に与える大きさという面からもこれを上回るものでした。アメリカの有名な世論調査の専門家が、投票が始まって1時間後に、クリントン氏が70%以上の確率で勝利するという見解をTVで発表していたといいます。なぜこれほどまでにマスメディアを含めた世論調査が間違ってしまったのでしょうか。世論調査では表れにくい「見逃された人々の声」が勝敗を分けたのだといわれています。

普段はあまり政治に関心がなく投票にも出かけなかった人々とはどんな層だったのでしょうか。よく指摘される所得格差の犠牲者ともいうべき低所得者階層ということになるでしょう。民主党政権下で報われなかった人々、政治に期待しない、いわばあきらめた人々が、民主党の政策を真っ向から否定したトランプという人物に変化を期待して投票したのではないでしょうか。

さてトランプ氏はこの人たちの期待に応えねばなりませんが、ハードルはきわめて高いといわざるをえません。

まず先進国で最大といわれる格差の原因を探ってみましょう。ノーベル賞を授賞した経済学者で民主党を支持するP・クルーグマン教授は次のように指摘しています。以下は同教授の著作「格差はつくられた」からの引用です。

同教授によりますと、2005年時点のアメリカの所得上位10%層の所得の全所得に対する占有率は44%強、上位1%層では17%強で、いずれも格差が激しかった1920年代と同水準だということです。この格差はフランクリン・ルーズベルト大統領時代のニューディール政策で劇的に縮小しました。富裕層に適用される所得税の最高税率は1920年代には20%台半ばだったのですが、ルーズベルト改革で60%を大きく越えました。戦後もこの傾向は続きましたが、1980年代のレーガン大統領の共和党政権時代に格差が大幅に拡大しました。富裕層の税率を大幅に引き下げたことが大きな原因です。日本の財務省の資料によりますと、レーガン大統領就任前には、最高税率は70%でした。それがレーガン大統領時代に30%を下回るまでに引き下げられました。現在は40%弱です。これでは格差は拡大するはずです。クルーグマン教授の指摘するようにまさに、格差はつくられた、といわざるをえません。共和党のトランプ氏が最高税率を上げることを通じて所得の再分配政策を強化するとは考えにくいと思います。

さらにトランプ氏は、オバマ大統領がようやく実現にこぎつけた、いわゆるオバマケア(低所得層を保護するための医療保険制度改革)も廃止するとしています。これでは民主党時代にも実現しなかった格差問題は解消に向かうどころか悪化する可能性の方が大きいのではないでしょうか。

またトランプ氏はグローバリゼーションによってアメリカの雇用が失われたといっていますが、保護主義が結局は経済を縮小させることは大恐慌につながった戦前の歴史を見れば明らかです。

以上のように新大統領が選挙期間中に表明してきた公約をそのまま実行に移せば前途多難といえるでしょう。経営者であるトランプ氏のことですから、現実路線に転換する可能性もあるかもしれません。注視してゆきましょう。
(2016年11月15日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか