時論

内田茂男学校法人千葉学園理事長(元日本経済新聞論説委員)による時論です。ときどきの社会経済事象をジャーナリストの視点で語ります。

「歴史は繰り返す」という表現は随分と昔から西洋で使われているようです。それだけに説得力があるのですが、大事なのは、繰り返すかどうかではなく、歴史に記されている過去の事柄に類似した事象が生じているなら、その過去の事例がその後、どう展開したかを知ることだと思います。どんなに科学が発展しても明日のことは誰にもわかりません。しかし、過去の事例を参考にすれば、全くわからないことに必然的に伴うリスクを減らすことができます。「過去に学ぶ」とはそういうことだと思います。

前置きが長くなってしまいましたが、ここでとりあげたいのは、最近、日本でも報道されるようになったキリスト教をめぐるロシアの動きです。モスクワからの報道によりますと、つい先日(10月15日)、ロシア正教会が東方正教会の最高権威とされているイスタンブール(トルコ)のコンスタンチノープル総主教庁との関係を断絶すると発表したということです。
わたしたち日本人には、いかにも縁遠い話のように思いますが、キリスト教とイスラム教、キリスト教内部のローマ法王のもとでのカトリックと東方正教会の争いは、世界情勢を大きく揺さぶってきました。決して他人事ではないのです。

今回のロシア正教会の行動の原因は、かつてロシアの支配下にあったウクライナのウクライナ正教会がロシア正教会から独立する動きを見せ、それを東方正教会の総元締めであるコンスタンチノープル総主教庁が承認したことです。現在のウクライナ政府はEU(欧州連合)加入を目指し、西欧寄りの外交政策をとり続けています。これに対しプーチン政権下のロシアはウクライナのロシア派勢力を支援し、ウクライナ政府軍とロシア派との間の内戦が続いています。この間、2014年にはロシアがウクライナ領内のクリミア自治共和国を事実上、併合するという事件がありました。

東方正教会の盟主の座をねらい、黒海に臨む軍港セバストポリを抱えるクリミア半島に固執するロシアの姿は、19世紀のクリミア戦争当時と酷似しています。プーチン大統領は、当時のロシア皇帝、ニコライ1世に重なります。

クリミア戦争(1853~1856年)については、イギリス軍の従軍看護婦ナイチンゲールが英雄的な働きをしたことや文豪トルストイがロシア軍の最前線から戦闘の記録をつぶさに書き送っていたことなどを断片的には知っていましたが、体系的な知識はほとんど持ち合わせてはいませんでした。その全体像に触れたのは、3年前に翻訳出版された「クリミア戦争(上)(下)」(オーランド・ファイジズ著、染谷徹訳、白水社)を読んでからです。日本語訳で800ページに及ぶこの大著の著者はロンドン大学の歴史学教授ですが、「英国の立場からだけでなく、ロシア、フランス、オスマン帝国の立場から、これらの大国がこの戦争に関与するに至る経緯を解明しようとする試みは、本書が初めてだろう」と序言で述べています。それほどクリミア戦争は地政学的、文化的、宗教的背景が複雑だったのです。

ここで指摘しておきたいのは、オスマン帝国に先端を開いたロシア帝国のニコライ1世は、イスラム教のオスマン帝国内に居住する東方正教徒の庇護者として行動したという点です。彼は、“東方教会帝国”をコンスタンチノープルのみならずイェルサレムにまで拡大する使命感に燃えていたといいます。まさかプーチン大統領がそこまで考えているとは思えませんが—。

クリミア戦争は「初めての近代戦」「初めての総力戦」といわれていますが、ロシア・クリミアのセバストポリ要塞をめぐる11カ月に及ぶ大攻防戦を中心に両軍合わせて75万人の戦死者を出して終結しました。セバストポリ要塞の陥落が引き金となりました。
クリミア戦争でイスラムの盟主、オスマントルコの衰退、ロシア帝国の東方戦略の停滞、ドイツ、イタリアなど欧州近代国民国家の台頭など世界の構図が大転換を遂げました。
今回の東方正教会を巡るロシアの行動はクリミア戦争の導入部によく似ているように思います。今度、どう展開するのか。注意しておく必要があります。
(2018年10月29日記)


内田茂男常務理事

【内田茂男 プロフィール】
1941年生まれ。1965年、慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。編集局証券部、日本経済研究センター、東京本社証券部長、論説委員等を経て、現在、学校法人千葉学園常務理事、千葉商科大学名誉教授。

<主な著書>
『ゼミナール 日本経済入門』(共著、日本経済新聞社)
『昭和経済史(下)』(共著、日本経済新聞社)
『新生・日本経済』(共著、日本経済新聞社)
『日本証券史3』、『これで納得!日本経済のしくみ』(単著、日本経済新聞社)
『新・日本経済入門』』(共著、日本経済新聞出版社) ほか