日本語の文字の形は、統一感がない?

2015年12月21日

日常生活において、文字は必要不可欠なもので、存在していることが当たり前になっています。ここでは、当たり前に目の前にある文字、日本語の形について考えてみたいと思いますが、その前に文字そのものについて、少し考えてみましょう。

言葉と文字について

人間は一人では生きられない動物です。人と人とが関わり合い、支え合いながらでなければ生きていけません。人と人とが効率よく関わり合うためのコミュニケーションツールとして、言葉が誕生しました。身ぶりや手ぶりでも自分の思っていることを伝えられるかもしれませんが、やはり正確に伝えるためには言葉が最も便利です。言葉を相手に伝える方法として、言葉を音に変換する、言葉を目に見える形にするという二種類の方法が挙げられます。言葉を音に変換する、音を口から発する、つまり声です。そして、言葉を目に見える形にする方法の一つが文字という道具を使うということです。文字という道具の使い方は小学校に入る前から教わり始め、それ以降、多くの人が毎日使っています。

さて、言葉の次は、文字についてですが、文字にもまた二種類あります。逆に言えば、文字には二種類しかありません。二種類?と思われるかもしれませんが、普段の生活の中で目にする文字は、簡単に言うと、誰かが手で書いた文字か、機械を通して作られた文字のどちらかだけです。機械を通して作られた文字を活字と言います。厳密には活字は複製が可能な規格化された文字ということになり、デジタル環境では活字をフォントと呼ぶことが一般的です。文字は人間が発明した道具ですから、この二種類しかないことは当然ですが、改めて考えてみないと気がつかないほど、文字は当たり前の道具になっています。

文字の濃度

私はグラフィックデザイナーとして、フライヤー(チラシ)やパンフレットなどの印刷物をデザインする時には必ず活字を使います。それらのデザインはその文字が現す言葉の内容もさることながら、文字の見た目の形(書体・字形のデザイン)にも配慮し、その書体がどのような印象を表すことができるかを考え、内容にあった印象を持つ活字を選択します。

そのような作業を繰り返しいく中で、ある時、日本語の文章には黒く見えるところと、グレーに見えるところ、そして文字間が空いて見えるところがあることに気がつきました。アルファベットだけが並んだ文字列ではあまりそのような濃度の違いを感じることはありません。[図参照]を、目を細めて見ると、横線が何本も並んでいるように見えます。ところが日本語はこのページの文章を見てわかる通り、濃度の濃いところと薄いところがあります。日本語の文章中に濃度さが現れる原因は、文字の形が統一されていないからではないでしょうか。漢字の形は縦線と横線が多く、一文字の中に描かれる線が多い文字です。例えば「漢」という文字は14本線で描かれています。仮名は曲線が多く、線の数が少ない文字です。「の」は曲線が1本だけです。これらの統一感のない文字が文章中の濃度さの原因です。

漢字と仮名

では、なぜ漢字と仮名の字形はこのような違いがあるのでしょうか。それはご存知通り、その文字が作られた国が違うからです。漢字は、漢の国、つまり中国生まれの文字で、二千年前くらいに日本に伝えられてきました。当時の人々は漢の国の文字を中国での使い方と同じように使っていましたが、やがて日本語の発音に合わせて、漢字の意味はさておき、音だけ借りる、つまり当て字として使うようになっていきます。そしてさらにはその漢字は早く流れるように筆で書くことにより、平仮名が生まれました。漢字の仮の文字だから「仮名」と呼ばれ、それに対して、漢字は真の文字だから「真名(まな)」と呼ばれていました。つまり仮名は日本で作られた文字、漢字に対して、和字ということです。日本語は違う国で生まれた文字が混じって使われているのです。

漢字仮名交じり廃止

日本語は二ヶ国の文字が混在していると考えると、ひとつの国の中で作られた文字を覚えるよりはるかに難易度が高いように思います。英語で「rice」は「rice」だけですが、日本語では「御飯」「ご飯」「ごはん」「ゴハン」となります。英語はaからzまで26字、大文字を加えて52字を覚え、それらを組み合わせて単語が作られていますが、日本語は小学校と中学校で平仮名48字と片仮名48字そして2136字の漢字、合計2232字を覚えなければなりません。単純に文字数を合計しただけでも不公平さを感じないでしょうか。

日本の歴史を紐解くと、そんな不公平さが社会問題となっていた時期がありました。江戸時代は鎖国で外国との交流は限られていましたが、明治時代の幕が開けると、人々は我先にと外国からの技術や文化を得ようとしましたが、まず日本語そのものを覚えることに時間がかかり過ぎると考え、漢字仮名交じりをやめて、日本語をローマ字で現そうとする論争が起きます。それが「ローマ字国字論」です。Tashika ni nihongo ha romaji de kakiarawasu koto ga dekimasu。Romaji dake de yoi nara 2136ji mo oboeru hitsuyo ha arimasen。このようにローマ字を日本の国の文字、国字とすることで、ローマ字国字論者たちはたくさんの文字を覚える時間を新しい技術や文化を習得する時間に使えると考えたのです。しかし先ほどのローマ字だけの文章を見て、覚えることは楽になりそうですが、逆に読むことに時間がかかりそうですね。

人間の身体には能力の限界があります。逆に心地よく感じる適正というものもあります。普段の生活の中で、あらゆるものが適正であれば、それは過ごしやすい環境と言えるかもしれませんが、そのような環境でなくても人間は自分が置かれた環境に慣れていきます。これが習慣性というものです。つまり、いくらアルファベットが覚える字数が少なくても、漢字仮名交じりという習慣を捨てることはできず、結局、ローマ字国字論は受け入れられることはないまま現在に至ったのです。とは言え、私個人的には日本語は決して覚えることが難しい文字だとは思っていません。例えば「魳」は何かわかりますか? カマスと読みます。カマスという名称を初めて聞いた人でも魚ではないかということが文字の形からわかります。しかし英語でカマスは「barracuda」となります。この単語の意味がわからなければ、文字の形からだけではこれが何なのかは全く想像できません。普段、文章を読んでいる時もこのように読めないけれど、調べるのは面倒なので、文字の形から何となくわかったつもりで文字を読んでいることはないでしょうか。これは一文字ずつに意味を持っている漢字だからできることです。

日本語の表情が語る

何となく文字の形から意味が想像できるということに加えて、最後に、文字の形に統一感がないからこそ表現できる日本語の力を紹介します。引用する文章は堀辰雄『風立ちぬ』の一文です。

「サナトリウムに着くと、私達は、その一番奥の方の、裏がすぐ雑木林になっている、病棟の二階の第一号室に入れられた。簡単な診察後、節子はすぐベッドに寝ているように命じられた。」

文章の見た目には何の変哲もないもので、これを誰かが朗読している場面を想像してみるとおそらくは大人の人が思い浮かぶのではないでしょうか。では次はいかがでしょうか。

「サナトリウムにつくと わたしたちは そのいちばんおくのほうの うらが すぐぞうきばやしになっている びょうとうの にかいの だいいちごうしつにいれられた。かんたんなしんさつご せつこはすぐベッドにねているようにめいじられた。」

文章内容は同じですが、やはり誰かが朗読していると想像すると…、これはおそらく子供ではないでしょうか。また先ほどのように全てローマ字だったとしたら、片言の日本語のように聞こえてきませんか。こういった文字の表情の使い分けは携帯やスマートフォンなどで交わすメールの文章でも同じではないでしょうか。メールでは絵文字やスタンプと言った具体的なイメージを示すものを使うことが多いのですが「お疲れ様です」と「おつかれさまです」は、それを読んだ人の受け取り方は同じではありませんよね。

このように日本語の文字の形には統一感がないからこそ、豊かな表情を持ち、文章の内容以上のものが表現できる文字だと言えます。自分が人に伝えたいことをどのような文章すれば良いかだけではなく、どのように文字を使えば、より伝わりやすくなるのかを考えながら、日本語を扱うとその魅力がさらに理解でき、文字や言葉を大切にできるのではないでしょうか。

【参考文献】

  • 大島正二 2006 『漢字伝来』岩波書店(岩波新書・赤版1031)
  • 田丸卓郎 1930 『ローマ字國字論』岩波書店

解説者紹介

杉田 このみ[政策情報学部助教]
吉羽 一之 YOSHIHA, Kazuyuki
[専攻]
グラフィックデザイン、タイポグラフィ、組版設計