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した。ちょうど、私が生まれた頃になります。栗原 ここにお店を出したのは何か特別の理由があるのでしょうか?森田 当時、ここ針中野や駒川は大阪でも大変にぎわっている地域のひとつでした。そのため、なかなか商店街の中にお店を持つことはできませんでした。ちょうど商店街のはずれのところに空店舗が見つかり、そこを借りて出店したのが始まりです。これで森田屋は駒川と東大阪と生野の3店舗の経営体制になりました。父は7人兄弟の長男。小さいときに母親を亡くして、祖父と父で弟たちを育て上げて、大変苦労したと聞いています。東大阪の店は弟たちに譲りました。ところが、生野の店は駒川に出店の直後に、火事で消失し、私たち家族は駒川の店でマイナスからのスタートになりました。前田 食肉の業界は競争が激しい業界ですが、駒川に出店してから現在まで、どのようにして発展させてきたのでしょうか。森田 昭和の40年代頃は高度成長期で精肉はよく売れたそうです。父の兄弟たちが集まるときに「あのころは、肉は包丁で切っても切っても、よく売れた。」という話をよく聞きます。バブル期まではお店を出せは順調に売れたという時代が続きました。駒川に出店した頃は、精肉店兼自宅の1階を改造して自分の店で売る分のコロッケや焼肉のたれを作っていました。まだ、私が小さい頃、そこでジャガイモを洗っていたことなどをよく覚えております。商売が順調に進むにつれて、それもだんだん手狭になってきました。そのため、土地を買って工場を建てて、自分の店で使う分だけではなく、大手の食品メーカーさんのプライベートブランドでタレやソースなどの調味料や加工食品を作るようになりました。それが、株式会社森田屋食品本舗です。そして、次にお好み焼き店の「花まる」を出店しました。また、精肉店の角でコロッケを揚げていたのですが、その下処理をする調理場を兼ねて精肉店の近くに出店したのがお弁当、惣菜店の「もりた屋」です。おかげさまで、今では、森田屋グループ全体で、年商約3億円、従業員50名の規模の事業にまで成長しました。栗原 そこまで事業を成長させてきた御社の強みはどこにあるとお考えですか?森田 なんと言っても当社の強みは、食肉市場で直接買い受けができる権利を持っている数少ない肉屋ということだと思います。東京は芝浦、大阪市は南港、兵庫は神戸、姫路など各都道府県に食肉市場はあるのですが、大阪市で実際に買い受けしている買受人は数でいったら200人くらいに限られます。当社は小さい肉屋ですが、この(買受人の)権利を持っているため、有名大手食肉メーカーのハンナン、エスフーズ、伊藤ハム、プリマハム、日本ハムなどと市場で競り合うことができます。私は、5年前に父からこの(買受人の)権利を受け継いだのですが、これから海外展開を含めた多方面の事業に有効に活用していければと考えております。さらに50年続けるためにお客様に本物を提供し続けたい栗原 経営を続けていく上でお考えの経営理念や大切にしたいことはございますか。森田 具体的に形にしているものはないのですが、今回、東京に店を出店するにあたり「50年続く企業、商売」にしたいと考えております。特に飲食店は流行り廃りの波が激しい業界であり、ざっと儲けて短期間で終わってしまうような店もあると思います。当社は、少なくても50年、半世紀は継続してお客様に支持されるような店、事業にしたいと思います。前田 食に関する事業ですので時代の変化で需要がなくなるということはないと思いますが、50年間お客様に愛され続けるお店にするためには、お客様にどのような価値を提供し貢献していっ森田屋の将来を語る森田社長27中小企業支援研究 Vol.5

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