中小企業支援研究vol2
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中小企業支援研究 別冊 Vol.22日本文化の象徴でもある「祭り」、その舞台を華やかに彩った「神輿」(みこし)には様々な伝統的特殊技術が駆使されており、その雄姿は今なお日本人の心に特別な感情を湧き立たせる存在です。しかし、文化や娯楽の多様化により、伝統文化への関心は希薄化し取り巻く環境も変化しました。そこで今回は、若く強力なリーダーシップで市川市行徳地区にある老舗の神輿製造販売会社「中台製作所」を牽引している中䑓洋社長にお話を伺いました。社長プロフィール中䑓洋(なかだいひろし)1972年千葉県生まれ。43歳。千葉県立市川工業高等学校建築科卒。1990年4月に愛知県内の仏具製造会社に就職。1994年4月に父・実氏が社長を務めていた中台製作所に転職。2013年2月に社長に就任。創業当時から受け継ぐ伝統技法による『本物の神輿』が日本の祭りを勇壮に彩る江戸時代から生き残る「行徳の神輿屋さん」齊藤 千葉商科大学経済研究所が中小企業インタビューを始めているのは、中小企業の経験に学び理解していきたいからです。まず、御社創設の経緯を教えて下さい。中䑓 当社の創設はおよそ160年前です。行徳の歴史が物語っているのですが、塩田が徳川幕府の直轄領であり、成田街道の起点ということもあって、行者さんや信者さんの往来が多く、また、多くの神社仏閣が建立されたことで職人が多く集まったこと、さらに、塩の運搬経路として江戸と行徳塩浜間を舟が往来していたことから、一番栄えて大勢の人が集まっていた江戸でお祭りがあると、神輿の需要となり、塩の運搬経路を利用して、行徳で製作された神輿が運ばれたようです。 当社は、もともとは神輿の製作ではなく下請けで、本体(木地)製作の木工屋だったようです。当時は当社の看板がついた神輿はありません。当社が神輿製作も含めた体制に整ってきたのは、昭和初期です。行徳には当社を含めて神輿屋が3社あったのですが、その他の2社は現在廃業してしまい、当社だけが残っています。他社にいた職人が当社に移って来たりして、少しずつ現在の体制に整ってきました。「技術」と「人」(職人)が老舗企業を支える齊藤 行徳に3社あった神輿屋のうち、御社だけが残っておられますが、その理由を教えて下さい。中䑓 当社には「技術」と「人」が残っていたということです。神輿製作の最盛期は昭和30年代といわれていますが、日本の神輿の約7割は行徳で製作されたといわれているくらい最も歴史ある産地で、当時大勢の職人がいました。廃業したその他2社には歴史もあり相当量の納入実績もあったのですが、結局、看板だけでは会社の存続は難しかったのかもしれません。やはり、神輿製作には特殊な技術が必要なのです。最終的には、その当時に技術を持った多くの職人を抱えていたのが当社だけだったということになるのだと思います。齊藤 職人を抱える、例えば、神輿製作の注文が来ないような時に職人に給料を払うことは大変なことです。中䑓 そうですね。職人は仕事がなければお金(売上)を生みません。結局は、職人の手が空かないだけの仕事があれば良いのですが、仕事を切らさないように何をするべきかを追求するのは大変です。したがって、神輿製作だけでは事業の継続はできないので、現場仕事やお宮解体等、関連する仕事は全て請けています。神輿は複雑な一体の製品ですが、色々な技術が集結しています。千老舗を継承する5代目社長。後方に4代目社長の父経営者インタビュー【有限会社中台製作所】

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