中小企業支援研究vol3
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中小企業支援研究 別冊 Vol.310110余年の歴史を誇る老舗機械メーカー新創業により社内改革を断行し微粒子技術を確立する初代は東京・月島で創業、蒸気機関車の製造に着手大塚 お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。私ども千葉商科大学経済研究所では、優れた中小企業のノウハウをお聞きし、それをお伝えすることで中小企業のお役に立ちたいと考えております。まず「アシザワ・ファインテック」とは、どのような会社なのか、名前のいわれから教えてください。芦澤 私どもの現在の会社名には、〈ファイン〉という言葉が使われています。これは英語で言う〈fine〉であり、お天気がよいとか、気分がよい時に使われますが、〈細かい〉とか〈高機能〉という意味もあるようです。テックはテクノロジーですので、我が社の名前は「細かいことに関する技術に挑戦するアシザワ」という意味です。大塚 なるほど、そんな奥深い意味があったのですね。歴史ある会社として、創業の経緯などをお聞かせください。芦澤 私の曾祖父・芦澤仁吾が東京の築地で蘆澤鉄工所を始めたのは、明治36年のことです。その2年前、北九州に八幡製鉄所ができ、近代的な鉄の利用が「殖産興業」の名の下に広まってきました。大正時代になり小型ボイラーを作る一方、民間として初の蒸気機関車の製造にも着手しました。ここに100年前の蒸気機関車の図面がありますが、これを見ましても当時の先端技術の一端を知ることが出来ますし、今風に言えばベンチャー企業の走りと言えます。大正、昭和にかけて大震災や戦争による設備の焼失などもありましたが、時代の要請に応じ製品も少しずつ変化してきたわけです。私は4代目に当たるのですが、2代目はセメントに欠かせない大型機械づくりを柱に業績を伸ばしていきました。しかし当時の仕事はすべて大企業の下請けだったのです。3代目である私の父・直仁は下請け工場からの脱皮を模索し、スプレードライヤーという大型装置の製造販売を経て、後に粉砕機の専門メーカーを目指しました。下請企業から脱皮し、微粒子技術のメーカーへ転換大塚 下請けとして大きな装置づくりから小さな微細技術のメーカーになった契機はどのようなものでしたか。芦澤 昭和30年代から50年代の高度成長期においても、私どもは大企業の下請けに甘んじていたわけです。大きなプラント機械を造る仕事は受注額こそ何億円単位と大きいものの、中小企業にとって材料の手当や人手の経営者インタビュー【アシザワ・ファインテック株式会社】アシザワ・ファインテック株式会社は製造業では珍しい110余年の歴史を誇る老舗企業です。初代が東京・月島に蘆澤鉄工所を創業以来、時代の変化に対応して得意分野を伸ばし続けることで発展してきました。芦澤直太郎社長は4代目に当たります。近年では、機械事業の中でも産業用の微粒子技術に特化した微粉砕・分散機のメーカーとして大企業との取引実績を有し、ハイテック機器から新エネルギー分野まで、様々な製品の創出に貢献しています。その契機になったのが2003年、主力である機械事業を前身の会社から引き継いで独立し、新創業というかたちで大改革を行った芦澤社長の英断がありました。今回は200年企業に向けて「アシザワ・ファインテック」を牽引している芦澤社長にお話を伺いました。社長プロフィール芦澤直太郎(あしざわ なおたろう)。1964年7月3日東京生まれ。1987年慶應義塾大学法学部卒業。三菱銀行に入行後、1991年アシザワ株式会社に入社。2000年代表取締役社長に就任。創業100周年を迎えた2003年、アシザワ株式会社から不動産部門を切り離しアシザワ・ファインテック株式会社を設立した。学生時代はラクビー部に所属、趣味は音楽、「落花生のうた」でCDデビューを果たす。蒸気機関車の設計図を掲げる芦澤社長

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