中小企業支援研究vol3
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中小企業支援研究 別冊 Vol.312には機械メーカーに転換しておりました。営業部門は存在するのですがプロの営業マンは皆無で、技術的にもドイツの提携先任せで新しい機械を開発することなど出来なかったのです。都内にある不動産部門の安定的な収入があるにもかかわらず、業績は低迷しており金融機関からは廃業の勧告を受ける状態でした。ただ、当時100周年を控え、私の心の中で「3代にわたって築いてきた会社を存続させなければ」という思いが強まってきました。大塚 具体的に会社の存続に向けてどのような改革を行ったのですか。芦澤 そこで会社の現状を見てみますと、我が社の製品を買ってくださるお客様は、自動車部品のメーカーとか電子部品のメーカーとか、日本を代表する優良企業ばかりです。そうした企業が新たな新製品を開発するために、必要な機械を我が社に求めていることが解りました。しかも、ドイツには立派な提携先があり、問題は会社内部にあるという結論に達したのです。これは、経営者の問題だと自覚しました。抜本的な改革をすればまだ生き延びることが出来るのではと思いついたわけです。当時、4代目として何が出来るかを自問し、自らの意識を変革しました。つまり、機械メーカーとしてお客様の為になり、社員が喜んで働ける会社づくりを目指すことにしました。具体的には、古い体質から決別するため都内にある不動産業を副業とするアシザワ株式会社から機械事業を移転し、アシザワ・ファインテックを創業することになりました。ベンチャー魂を活かし分社化に挑戦する大塚 分社化による改革ですね。最近でこそ新創業で会社が蘇るという話を聞くようになりましたが、当時としては画期的なことではないでしょうか。芦澤 当時は、このままではいけない。技術も営業もすべてが欠点だらけで何とかしなければという思いが強かったのです。先祖が3代にわたりものづくりを続けてきた会社であり、自分の代で挑戦せずに廃業してしまうのは敵前逃亡に当たります。そこで私自身の心構えを変えることから大改革を決意しました。それは後1年で100周年を迎えるタイミングでした。100周年をもって、「アシザワは機械製造業としては止めます。いままで副業としてやっていた不動産だけの会社にします」と宣言しました。大塚 大変な覚悟で、新創業にチャレンジしたのですね。ここでも、創業時の「ベンチャー魂」が生きていますね。芦澤 当時は分社化といっていましたが、いわゆる新創業という大改革であり、ずいぶん思い切ったことをいたしました。2003年3月31日を持って社員全員を解雇しました。もちろん、割増の退職金を払って。「退職金を受け取った先の身の振り方は自分たちで考えて下さい」と話し、その上で、「アシザワ・ファインテックという新しい会社を作って待っているから、一緒に出直そう。皆さんの意思で入社してくれ」とお願いしました。その際、「疑問点や不満、改善の提案など全て言ってくれ、その結果については、私が全面的に責任を負う」と訴えました。100年委員会で若手が中心となってビジョンを固める大塚 社長の切羽詰まった改革意識が、社員の心を打ったのでしょうね。新会社に移転する前のプロジェクトで新たなビジョンなどを検討したようですが、どのように行ったのですか。芦澤 会社のあたらしい方針を決めるに当たって、100年委員会というプロジェクトをつくり、若手社員中心の組織をつくりました。そこで、理想の会社を考えるという意味で、技術はどうあるべきか、お客様に対して何が出来るか、働きがいのある会社とはどうあるべきなのか、といった問題について検討しました。会社の方向性を示すスローガンとしてまとめ上げました。それが「微粒子技術で新しい可能性の共創」です。鈴木 この“共創”という意味は「お客様との共創という意味でもあり、社員同士がお互いに高め合って最先端の技術をつくりあげる」という意味も含まれているのでしょうか。また、組織として現場がどう変化したのかお聞かせください。芦澤 おっしゃるとおり、お客様と一緒になって最先端の技術を提供することであり、社員同士がお互いに高め合って新しいものづくりをすることを意味します。会社の組織を円滑にするには、人の組み合わせが大切です。本社全景

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