中小企業支援研究vol3
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中小企業支援研究 別冊 Vol.33モノを売るより「コト」を仕掛ける前田 ニュービジネスに挑戦するということが、御社の3代にわたる経営者の共通点ですね。しかし、先代までにはない事業拡大の出発点はどのようでしたか。重永 最初は、少女向け雑誌の主人公の女の子がポプリづくりをするというシーンを、漫画に掲載してもらいました。 その雑誌を通じて、ポプリコンテストを行いましたら、全国、20万人ほどの女の子たちからの応募、参画がありました。前田 すごいですね。どのような工夫をされたのですか。重永 ポプリという「モノ」(商品)を販売するのでなく、ポプリを作る「コト」の楽しさを訴求しました。この「コト」が小学校・中学校の女の子たちのあこがれとなって、その応募者の20万人が、ポプリ通信販売の会員になり、当社の最初の主要顧客となりました。前田 ポプリを作る「コト」が反響を呼ぶだろうという仮説が検証されたのですね。重永 期待した潜在ニーズが顕在化した瞬間でした。前田 成功要因はどこにありましたか。重永 当時は高度経済成長期でしたが、生活の近代化や機械化があまりに急速に進み、その反面でどこかに自然回帰、健康、癒し、自由、そして個性を大切にして生きていくことの重要性を感じており、その価値観を提案してきたことが、自由、個性のシンボルとしてのハーブのある生活の提案につながったと思います。そしてそのことが、若い女性の感性と共鳴したのだと思います。自前主義の原点に回帰前田 順調に事業化が進んだのですか。重永 いいえ、その後だいぶ時間がかかりました。当時は、卸売り中心にしていました。ハーブも、雑貨屋さんやハーブガーデンなどでのお土産品として扱われる程度でしたから、商品が古くなってもいつまでも店頭陳列されているような状況でした。前田 在庫になって、鮮度が落ちますね。重永 はい。そこで、卸売り販売中心の事業から、製造小売主体の事業へと転換させていきました。流通在庫として消費者にいきわたらずに残っていては、事業としての発展や、商品としての普及はできないと考え、直営店販売に特化しました。事業としての損益分岐点という面では、直営店が30店舗くらいになってからやっと調達、生産ロットと消費量のバランスが取れ始めました。前田 そこまでくると攻撃に転じられますね。重永 全国展開の可能性の手ごたえを実感しました。でも、店舗展開のプランついてはしっかりと自信を持っておりましたが、会社の財務状況のバランスがまだ悪く、そのために融資が下りず、出店予定していた店のデベロッパーに土下座して謝るということもありました。前田 1990年代頃からは、時代がキャッシュフロー経営を求めるようになりましたからね。重永 ですから、やりたいことをまず先にするというのでなく、会社のキャッシュフローを中心に考える必要から、売上と同時に利益体質に転換することを決断しました。資金調達について考える重要性を痛感しました。前田 商品調達の面ではいかがでしたか。重永 計画当初は、1998年頃のことですが、海外企業と提携し、年間の生産物の買取契約を交わし、欧州の自然化粧品を日本で初めて仕入れましたが、思ったより売れず7千万円ほどの不良在庫が発生し、本業に影響をきたしました。この反省より結局はどのようなブランドでも、既存のモノで思いを込めて作る自社開発、自社生産が重要だと考えました。この苦い経験から得た教訓は当社の成長の機会にもなりました。前田 こうして日本で唯一のオリジナルブランドが誕生したのですね。重永 はい、そのための生産、物流、直営店舗への設備投資、人財確保、雇用啓発にも懸命に努力しました。この失敗を契機として、原材料の調達、開発、製造、流通までの「一貫流通体制」「オール自前主義」でいくことを決断しました。このことは、当社の原点に回帰することになりました。もともと、創業者の時代から仕事はすべて自前主義でした。写真撮影も当時では、誰もが気が付きにくかったオリジナルな事業でしたし、陶器も自社でブランディングするためにデザインをして、ものづくりを通じて品揃えをしているという原点を思い出しました。前田 具体的にはどのような発見でしたか。重永 「何を売るか」にばかり思いを巡らせていましたが、「自社がどうあるべきか」が原点にあったことを思い起こしました。それまでは卸売り中心で、直営店はそのための単なるアンテナショップという位置づけでし創業時代の写真館洋食の時代を先取りした陶器店“陶光”

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