中小企業支援研究vol5
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中小企業支援研究 別冊 Vol.52家族で現代版ニュービジネスへの挑戦鮎川 本日は、お忙しい中、快くインタビューにご対応いただきありがとうございます。柳内 こちらこそ千葉商科大学の皆様にはいつもお世話になっております。鮎川 いろいろお伺いする内容は多いのですが、まずは、家族経営から大きく成長された御社の歴史について伺いたいと思います。柳内 はじめは小さな商店からスタートしました。生家は、農作業の傍ら建材店を経営しておりました。父の時代は、江戸川区の東瑞江で豪農と云われていました。そこで、農家を対象に肥料を販売し、兼業として建材業も営んでいる状況でした。しかし、父は戦争から復員後5年で他界してしまいました。私が5歳の時でした。そのような状況でしたから、私は、私たち子供のために戦後の激動期を懸命に働く祖母と母の姿を見て育ちました。その姿がのちの私の仕事に対する姿勢の原点になっていると思います。その母も、私が商業高等学校に通う時期に亡くなってしまい、それからは兄(内山甚一)と2人で残された建材店を懸命に切り盛りしてまいりました。鮎川 大変な出発になりましたね。柳内 兄は初代社長として1957年に砂利や砂を建材屋に販売する内山甚一商店を設立し、私は高校卒業と同時に経理、配送・運行手配など、できることを懸命に手伝いました。ありがたいことに、当時は高度経済成長期であり、建築業界も盛況で、コンクリートの需要も急激に拡大した時期でもありました。鮎川 何か工夫をされましたか。柳内 当時の状況は、建設現場に材料を搬入し、トタン板などの上で手練りをするやり方でした。これを見た兄は、事前に材料を練って生コンの状況で建築現場に届けるという方法を取り入れました。鮎川 大変な発見でしたね。柳内 ええ、需要が拡大していましたので、高額でしたがミキサー車の購入を決断し、業界の革新を行いました。コンクリートの原材料を販売するより生コンに加工して販売する方法は、今でいうベンチャービジネスでしたね。鮎川 どんなベンチャービジネスに成長しましたか。家族の強い絆で、事業規模を拡大し成長家族的な経営で出発し、コンクリート、セメント等の建設資材を供給する建設総合資材の商社として成長した山一興産㈱の社長であり、浦安商工会議所会頭としてもご活躍中の柳内光子氏よりお話を伺いました。社長プロフィール柳内光子(やない みつこ)。1939年東京生まれ。1959年より生コンクリートの製造を開始。1963年に内山コンクリート工業(現内山アドバンス)、1969年に生コン・建設資材総合商社山一興産㈱を設立。男性中心の業界にあって卓越した経営手腕、営業力で業界をリード。1998年に社会福祉法人豊生会(現江戸川豊生会)を設立し、福祉事業にも参入。医療法人社会健勝会、学校法人草苑学園も運営。2004年には浦安商工会議所会頭に就任。2007年藍綬褒章受章。2012年渋沢栄一賞受賞。2014年春の叙勲で旭日小綬章受賞。内山基一商店時代の生コン工場とずらり並んだミキサー車経営者インタビュー【山一興産株式会社】山一興産本部にて 鮎川 柳内社長 前田

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