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2746始まる大和朝廷史が主です。 高度な縄文文化をもって集団生活をしていた5500年前の三内丸山遺跡をはじめ北海道、東北、九州、沖縄その他全域、例えば近畿地方でさえ大和朝廷と関わりを持つまでの長い年月の歴史は書かれていません。ということはオーストラリアで見た歴史と大差ありません。 このように勝者の歴史が大手を振って、分かっている歴史さえ教えられてないのですから、少し日本のことを詳しく調べてきた外国の方に歴史上の何かを聞かれても、特に歴史好きで自ら学んでいない限り、答えられなくても仕方がないのかもしれません。地域を知れば日本が分かる 国府台の地域には、日本の歴史が大きく動く時、必ずと言っていいほどその波紋が届いています。ですから国府台の歴史を知れば日本の歴史の概略を知ることができますので世界のどこへ行っても歴史に関しては安心して話のできる人になれます。 そこで人と楽しく話し、交流する要因の一つになるかもしれないと一縷の望みを託し、国府台の略史をまとめてみました。① 国府台の縄文弥生古墳時代 千葉商科大学のある国府台の土地には1万2000年前の遺跡があります。 ところで国府台の地名ですが、優雅に空を舞う鴻の鳥のいた台地でしたので鴻の台と呼ばれていました。 かつてアフリカに行った時、大空を舞う鶴に似た鴻の鳥を初めて見た私は、市川に、こんなにきれいな鳥が飛んでいた時があったのかと感激したものです。 京成国府台駅に近い富士を望める高台に建つ国こ府う神社はもと鴻神社でした。4世紀半ばに、中央政権が地方を従えるために派遣した日本武尊が大日川(江戸川)を渡ろうとした時の水先案内をしてくれた鴻の鳥に感謝して、その嘴の骨を御神体として祀ったのが鴻神社、と伝えられています。  国府台一帯は645年の大化の改新の後、大和朝廷の勢力内に組み込まれ、やがて千葉県北部、東京都東部、埼玉県東部、茨木県西部に渡る下総国の中心地として鴻の台に国府が置かれました。そのため鴻の台は国府台に、鴻神社は国府神社に表記が改められたと伝えられています。 また6世紀半ばの法皇塚古墳・6世紀後半から7世紀前半の明戸古墳、眞間山弘法寺古墳、埴輪の出土している丸山古墳など市川市内の古墳が国府台周辺に集中していて、朝廷とこの地の関わりを示唆しています。② 国府台の古代 奈良時代に編纂された日本最古の歌集・万葉集に真間の井、真間の手児奈、真間の継橋他の歌が載っています。 歌の中には大和の東漸勢力と原住民が今の真間山弘法寺、千葉商科大学の敷地周辺で戦って原住民が敗れた悲しみを歌った歌が掲載されています。 また武士が誕生した10世紀に、中央の圧政に対して立ち上がった平将門は下総の国府に入っています。そしてこの平将門の伝承が市川市内随所に残されています。③ 国府台の中世 世界初の庶民政治を確立した源頼朝は、治承4(1180)年に旗揚げし、石橋山の戦いに敗れて房総に来、房総周辺の有力武士たちに「目代を討て」と呼びかけてから市川に来、留まっていました。 当時、平家の派遣した目代とことごとく対立していた千葉氏をはじめ関東の有力武士たちは、頼朝の呼びかけに応じ次々と馳せ参じましたので、頼朝は市川で幕府を開く基礎を作ったといえるほどでした。 源頼朝が「父となすべし」と言ったほど信頼していた千葉常胤は下総国の守護に補任されました。 また鎌倉期における我が国初の国難、蒙古襲来時の元弘の板碑が中山の泰福寺に現存しています。  そして鎌倉期に起こった大乗仏教、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、法華宗の中の法華宗の開祖日蓮上人の歌碑が真間の継橋のたもとに立っています。④ 国府台の近世 歴史上、関東で最大の戦いである天文7(1538)年と永禄7(1564)年の国府台の戦いで、市川最古の寺院・真間山弘法寺から千葉商科大学にかけて里見軍の本陣が敷かれ、二度とも北条軍が里見軍を敗走させました。 文明11(1479)年に国府台城を築城した太田道灌は江戸城も築城し居城としていました。その江戸城は天正18(1590)年に徳川家康が造り替えました。その時、国府台城は、江戸攻撃の拠点になりかねないこと、江戸城を見下ろしていることを理由に徹底的に壊され、国府台城

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