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2846の石は江戸城の改築に使われたと伝えられています。 徳川家康は曹洞宗の総寧寺を栃木県の大中寺、埼玉県の龍穏寺と共に関東総録司に指定し、曹洞宗の全寺院を統括させ、寺領128石余り、格式は10万石の大名に相当する高さを与えました。 江戸時代の初期には、幕府の奨励した儒学に対抗する形で武士以外の人々の中から国学が起こり、市川ではいち早く元禄9(1688)年に日本最古の万葉の碑が千葉商科大学裏門近くに墓地のある鈴木長頼により、亀井院と手児奈霊堂の入口、そして継橋の傍らに建てられています。 幕末、市川でも戊辰戦争が戦われ、幕府の撒兵頭福田道直が3,200人を率い慶応4(1868)年閏4月3日、真間山、国分山を主戦場として官軍と戦い、官軍の勝利に終わりました。⑤ 国府台の近代 明治政府は大名の城や屋敷と同じように総寧寺の広大な寺領を没収し、明治8年に今の東京大学を国府台に建てる計画を立てました。が、川を渡って来る不便さと、当時、水は羅漢の井しかなく、大勢の学生に供しきれないとのことで、立ち消えになりました。 そのため大学でなく、明治10年から陸軍の用地として使われました。 その後、西洋の国会議事堂の多くは大河のほとりにあるので国府台に国会議事堂を建てようとの案が出たそうですが、実行されず、明治19年に陸軍の教導団が移ってきました。 このことからも国府台が関東屈指の一等地であることが分かります。 国府台には明治19年に陸軍の教導団が移ってきました。そして明治27・8年の日清戦争、37・8年の日露戦争に国府台の軍隊は戦場に送られています。 大正11年には野戦重砲兵第一連隊が今の千葉商科大学の地に移転してきました。 第二次世界大戦が4年に渡って戦われ原爆投下、主な都市炎上といった惨状の日本は昭和20年、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をし、軍隊は解散しました。 そのため陸軍の跡地に千葉商科大学や和洋女子大学、東京医科歯科大学、市川市立一中や国府台病院、里見公園、国府台スポーツセンター、市民体育館等公共の建物が建てられ現在に及んでいます。また軍人の町だった市川の面影を残す唯一の貴重なフランス積み赤レンガの建物も現存しています。おわりに 今年創立90周年を迎えた千葉商科大学では、学生が地域を深く知るための努力を重ね、多方面での地域貢献を計り、大いに感謝されています。さらに今年は千葉商科大学でアジア学生交流会議が開かれるとのことですが、そのメインの会議はもちろん、会議以外のところで、さらに機会があればアジアの学生のみならず諸外国の人々と人間的な交流を持つことで、海外に友を得、グローバルな活動の基礎が作られることを期待します。 そして、そのような諸交流の場で何を話し、何を話してはいけないかの良識を得るためには平生、学問や知識を身に付け、心の豊かさや物事への理解力、社会人として必要な広い知識、即ち教養を身に付けることが必要です。もちろん教養を身に付けようとの心がけさえあれば、知らないことは誰からでも教えを受けようとする謙虚な態度をとることができ、誰からも好感を持たれ、人として受け入れられること必定のはずです。 現在、東南アジア諸国は産業の高度化と、所得増大に向かって素晴らしい変貌を遂げつつあります。また世界各国の経済状況は、それぞれが抱えている課題が様々で政治、経済、社会の混迷は今後も続いていくと思われます。 このような時、広い分野にわたるまとまりのない知識である雑学を身に付け、社会を支える一人として活動していくために誰とでも親しく交流し、話せるようにしておくことが必要で、その雑学の一つに地域の歴史を知ることを加えてほしいと願って国府台の略史をまとめてみました。 そして一人でも多くの人が安心して暮らせ、生き甲斐を持てる住みよい世の中が招来されますようにとの願いを持って人と交流していく時に、高橋展子大使の「日本を一歩出たらみんな外交官」という言葉を今の国情に合わせ、海外はもちろんのこと、国内にいても日本人はみんな外交官との思いをもって日常を送っていただきたいと願っています。

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