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4446リスとギリシアにおけるオリンピック復興運動に焦点を当て、両者における復興運動の背景をたどりつつ、オリンピック復興運動と両者における古典古代の受容の差異にも目を向けたい。また、両国におけるオリンピック復興運動が、近代オリンピック誕生の父とされるクーベルタンのオリンピック構想にいかなる影響を与えたかについても考察していきたいと思う。(2)ローマ人のオリンピック:競技と法 ローマはギリシア的精神・思想の多くを受け入れ、それらを積極的に理想とした。しかし、ことオリンピックに関してはやや様相が異なっている。古典古代としてときにひとつとして扱われる両者のこの相違には注目されよう。ローマにおいてスポーツとはおよそ観戦するものであった。ギリシアが参加することで共同体意識を高めたのに対し、ローマはあくまでも観覧者として、参加する主体としてではなく観る主体としての共同体意識を目指したのだろうか。そして、このいわばショーとしてのオリンピックを最大限利用しようとしたのは、とりわけアウグストゥスのローマを理想としたムッソリーニもまた同様であったろう。本プロジェクトでは、ローマ人のオリンピック、すなわち観るための競技を成立させる装置として、いかにローマがこの分野の法を発展させていったのか、そこにどのようなスポーツ(競技)概念の形成が読み取れるかにも関心を向けてみたい。近代オリンピックとスポーツについて法史的な観点から検討していきたいと考えている。(3)スポーツ思想の独英比較 啓蒙主義思想は、いかなる観点から、何を歴史的源泉として、何との関連でスポーツ観を形成していったのか。本研究では、その問題性と可能性を、古代ギリシアの受容の仕方を例に検討する。 たとえば、ドイツ啓蒙思想の一翼を担ったフィヒテが19世紀初頭の講演『ドイツ国民に告ぐ』において身体能力の段階的な育成を主張し、また19世紀半ばにヤーンによって「体操」の語がギリシア語から「ドイツ語」のトゥルネンへと転換され、独特なトゥルネン運動が展開されていくとき、範型はいずれも古代ギリシアであった。例示した二人ともドイツ・ナショナリズムの形成に寄与した思想家だが、フィヒテが能力の段階的な育成なくしてギリシア的体育を身につけることはできないとして、計画的で規律化した体育教育の意義を主張したのに対し、ヤーンのトゥルネン運動はむしろ規律訓練型の練習を排し、より自主性を重んじる指向性も持っていた。そこには、近代ドイツならではの国家意識の問題もあった。他方で、事情の異なるイギリスにおいても、同様に古代ギリシアを参照軸としながら、オリンピック復興運動が展開されていった。 果たしてドイツとイギリスの啓蒙主義思想家たちは、古代ギリシアの何を受容(摂取と排除)しながら、それぞれの身体観・体育観を形成し、近代オリンピックへと連なるスポーツ思想を作り出していったのか。とくにイギリスとドイツの啓蒙主義思想における、古代ギリシア思想の発見と受容をめぐるコンステラツィオーンを、文明化理論を背景になされたノルベルト・エリアスのスポーツ研究を参照しながら検討してみたい。(4)ヨーロッパのスポーツ思想に対するアジアの影響 東アジア諸国はオリンピックの歴史において、ヨーロッパの国々に比べ、後発国といわざるをえないであろう。日本、韓国および中国がオリンピックを主催したのは近年のことであり、最初に金メダルを獲得したのもそれぞれ1928年、1976年、1984年と大きな遅れをとっている。スポーツ歴史学者のアレンは「オリンピックという大舞台の脇役にすぎない」と表現したほどである。確かに、ヨーロッパ発祥のオリンピックにおいて、東アジアはこれからもある意味で「部外者」であり続けるかもしれない。しかし、これらの「部外者」がオリンピックに与えるインパクトを考察することもオリンピック全体像を捉えるための重要な視点だと考える。文化背景の違いはもちろん、後発国である(経済発展においても)ゆえの東アジア諸国の特異性を明らかにしていきたいと思う。(5)スポーツと教育:ヴィクトリア時代の教育とスポーツ 近代オリンピックの研究は、従来、クーベルタンの思想の研究に特化されてきた。近年、とりわけ2012 年のロンドンオリンピックを契機に、イギリスにおけるオリンピック復興運動にも関心が向けられるようになったが、研究の中心は、中上流階級およびパブリックスクールにおけるスポーツの伝統とクーベルタンの思想との関係におかれるにとどまった。

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