cuc_V&V_第52号
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3452義的にのみ受け取られていると考えざるを得ない9。第二に、学習成果の評価基準(アセスメント・ポリシー)についても、その手法の特性や運用の仕方についての理解が不足していることが挙げられる。松下によれば、日本の大学で長期的ルーブリックなどを用いて学士課程を通じた学生の成長の評価を機関・プログラムレベルで行なっている事例は極めて限られている。2013年、アメリカの大学ではルーブリックの活用が全体の69%であるのに対して、同じ年度の日本の状況はわずか3.4%に過ぎない(松下 2017:103)。つまり、現在は学士課程改革がはじまったばかりの過渡期であり、その意味で、評価の対象としてふさわしくない項目が混ざってしまうことは致し方ないという見解もあるだろう。だが、ある人物の倫理観を一元的且つ不適切な基準で判断することが極めて非倫理的な行為であることは強調されて然るべきだ。第三に、倫理をめぐる用語選択の不用意さがある。ディプロマ・ポリシーとして掲げられている文言が「倫理観」であるのか「倫理的推論」であるのかで、学生が求められるものは大きく異なる。同様に、「倫理的選択」、「倫理的行動」、「倫理的能力」、「倫理的問題」、「倫理的視点」といった用語も、それぞれ独自に定義される必要がある。「倫理」を巡り展開する様々な概念を適切に定義せずに、それをディプロマ・ポリシーに組み込むことが混乱に拍車をかけている。それぞれの大学が独自の倫理教育を重視するのであれば、そこで学生に何を望んでいるのかは注意深く考察されなければならない。「高い倫理観」が「良い人」以上の意味を持つのだとすれば、それはどのような力を発揮できる人物であるのか。この点について十分な議論を経ているかどうかを省みる必要があろう。多くの大学が「高い倫理観」をもった人物を育てたいと考えることは理解できる。というよりも、その主張に表立って反対する動機は見出しにくい。倫理観の低い人物よりも、倫理観の高い人物を輩出した方が良いに決まっているからだ。だが、改めて考えてみると、高い倫理観は殊更に大学という教育機関で涵養されるべき資質なのだろうか。小学生には小学生なりに、高校生には高校生なりに、高い倫理観を持って勉学や遊びに励むことが期待されてはいないだろうか。年少だから倫理観が低くても仕方がない、大学を出ているならば高い倫理観を備えていて当然、というのは実は奇妙な発想だ。この発想を敷衍していけば、学歴と倫理観は相関することになる。だが、多くの逸脱行動研究が示しているように、高学歴が犯罪を思いとどまらせることはない(Southerland 1939=1955)。もし、教育歴や学習歴と相関するものがあるとすれば、それは複雑に分化した現代社会についての様々な体系的知識や技術であって倫理観そのものではない。豊かな知識と技術、経験を持つ人物にこそ高い倫理観が備わっていると感じられる(あるいは期待される)のは、何かについて知っていることや、何かができるということが、倫理的な課題に直面した時の選択を助けてくれるからではないか。この中には、もちろん、倫理それ自体についての知識や技術も含まれる。VALUEルーブリックが示しているのは、まさにこのような意味での能力としての倫理的推論の発展段階である。このように考えると、学生が倫理的課題に直面した時にどのような知識や技術を行為の資源とすることができるかは、どのような教育課程が展開しているか、どのような科目が存在しているか、どのような教育手法が採用されているか、といった学士課程のカリキュラムや科目の運営と不可分に結びついている。学生が倫理的な選択をとりうるようになるかどうかは、一元化された指標で事後的に判断することはできず、日常の大学生活のなかで不断に鍛えられ、省みられる必要がある。当然のことではあるが、ディプロマ・ポリシーはカリキュラム・ポリシーと密接な関わりを持つ。「学位授与」を4年間の学習の「結果の蓄積」として評価するのではなく、「学修の過程」として評価する仕組みづくりを視野にいれることが、学生の倫理を巡る成長を可視化していくことに繋がるだろう。9もちろん、その結果として可視化しやすい項目ばかりが教育の目標となってしまうことも懸念される。松下は学習成果の可視化が孕む課題として、①数値化可能な学習成果への切り詰め、②評価から目標への侵食、③多様性の喪失、④評価負担の大きさの4点を挙げている(松下 2017:105-108)。このうち、①、②、③はそれぞれ連動しており、可視化しやすい項目、すなわち数値化可能な成果ばかりが目標とされてしまうと、そうした「ベスト・プラクティス」を参考にしながら各大学のカリキュラムが過度に標準化・画一化されてしまうことが考えられる。こうした画一化は、入学者募集における他大学との競争に影響を及ぼすため、そこに大学の「独自性」を打ち出す動機が生じることになる。「倫理観」のような文言は、「建学の精神」などの中で長い期間にわたって大学のアイデンティティを構成してきたと捉えられるため、「独自性」の表現として選びやすいと言える。特 集CUCの倫理教育

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