cuc_V&V_第52号
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37そもそも論Ⅱ:倫理は学の前提だが、学があるからとて倫理的とは限らない件2人文社会における普遍価値の源泉とも呼ぶべきものについて―それなしに社会も哲学も科学もないのだが―それがためにこそ、大学は存在しているようなものである。私たちは様々な尺度や技術を持ち寄って、多様な領域における課題研究に従事し、諸学術・学科を修学する場を企図しているのである。どのような学問分野・領域においても、そこに何らかの倫理性(正当性)のないものは存在しない。言葉の使い方が目的や尺度や用法によって異なることは当然だけれども、本質的に、ある現象についての認識や尺度設計・ルール設定を問題としないものはおよそ学と呼ばれるものにおいては見出されないだろう。素粒子も、弱肉強食も、宇宙論も、自然科学も、社会工学も、AIも、数学も音楽も芸術も、すべて、混沌からの秩序立て―あるいは秩序化された限定からの混沌化―という方法論的あるいは生の根本的な動機を持つからである。諸学領域において、それらに関する現状や課題や方法についての知識、その世界を織りなす原理や方法論や領域の構造等について学ぶのが、学というもので、各科目の限定された期間で、半期12回とか13回とかの時間を使ってようやく「入門」であるとか、「一般」教養であるとか、あるいは、ある分野のある技法についての「専門」知識・技術を身につけるといったことが、ようやくできるかもしれないことを、目指してやっているわけである。だから、「倫理学」の単位を修めたからといって、それで倫理OKとなるわけがない。むしろ、〈倫理〉を培うためにすべての学科目があるのであって、逆に、全ての学科目を修めたからとて真人間が完成するだなどということではあり得ない。プラモデルじゃないんだから。学科目の成績はあくまでも当該科目の学術に対する修学程度として限定的に認められる力量の目安に過ぎない。たとえ成績優秀なエリート官僚であったとしても、つねに言動が正しいとは限らないのである。倫理は諸学の前提であるが、そうであるのはそれが人間にとって「正しい」ことだからだ、というよりは、そうならざるを得ないことが「まさに」人間の本性であるからだ、というべきであろう。もっと言うと、動物や植物にも倫理はある、といったこともまた、多様な学びを通じてようやく滋養される可能性を持つのである。とかく人は一視点でもって「断定」したがる。だが、そうした認識をこそ自ら問い返せなくてはならない。だが、頭ではわかっていても、なかなか自分を律することは難しい。だから、人は様々に学び、自分の世界を刷新し、あるいはそれに向き合ったり逃避したりしながら、なんとか生きていくのである。可能性と必然性を折り合わせながら、自分の認識や尺度やあり方をおのずと形づくってゆくことは、小さな子どもからお年寄りまで、まったく掛け値なしに変動し続ける精神そのものであり、一生ものである。「正しいこと」と理解されていることが本当に正しいのかどうか。それがわからなくなったり、迷ったり、それに基づいたはずが間違えたりして、大切なものを踏みにじったり、汚したり打ちのめしたり、壊したり、あるいは殺すことさえある。それが人間という存在そのものの内にある。そうして奪ったり、奪われたり、苦しんだり悲しんだり、孤立したり、心を痛めたり、失望をあてどなく繰り返したり、人間はし続けている。それを知らない人はいないだろう。おそれるべきは、「自分はその限りではない」とか「自分には関係ない」と自己や他者の存在への配慮や反省を欠くこと、意識や気持ちへの修正を欠くことだ。自律する力や意志の強弱、依存や不安。人間が持つ悪や弱さに向き合う術、生きてゆくことを少しでも支え良くしてゆく手立て。こうしたものを人は必要とする。人間はそのありようをいくら変えたとて、人間であることに変わりはない。そうでなければ、社会で問題とされる様々な「問題」がそもそも出てこないだろう。人間が生み出す様々な問題を改善するためにどうしたらよいか、何ができるかを、大学や研究機関というものは必死になって探している。倫理は学術の前提であり社会の前提である。それなしに社会は混沌化し廃頽する。言葉を通じて無意識のうちに刷り込まれているものを総動員させ、かつ、身震いして自己を顧みるにしても、私たちは私たち自身を問題とするのである。それが人間の存在の本質だとわざわざ哲学を引き込んで説明するまでもないだろう。問題は、ほかならぬ、人間自身である。52特 集CUCの倫理教育

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