cuc_V&V_第52号
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38はたして、生活の中に哀しみと苦しみが存在することがなければ、私たちは自ら問うこともなくなるのだろうか。その時、〈倫理〉とは「達成されるべきもの」なのか「達成へと向かう過程」にあるのか、それとも両者を包括しつつ、「あらゆる事象に対して疑問を持ちうる自由」にあるのか等々は、倫理学の範疇であろう。だが、そうした問いにおいて、すでに前提とされているものがまさに〈倫理〉そのものである。ある区別・区分をよしとするか、それとも妥当でないとするかは、個人の意志と判断に委ねられている。その時、判断の根拠となるのはその人自身における〈認識〉にほかならない。あらゆる学の前提に各人自身における〈倫理〉があることを、まずはっきりさせておかなければならない。そもそも論Ⅲ:私たちが、私たちを何ものと捉えるか。自己限定の共通了解がない件3そもそも、私たちは大学へやってきてまでなぜ「倫理学」なんていう非常に単純明快かつ複雑不透明な領域について学ぼうというのだろうか。「正しいこと」や「ルールを守ろう」といった百万の規則を徹底的に学べばよいのだろうか。それらを学ぶことに意味はあろう。だが、それらをすべて「記憶」し、「テストで百点」をとって成績が「S」評価だったとして、だから何なのだろう。それによって、その人間個人の倫理が証明されることなど何ひとつない。おのれ自身の倫理に問いかけ、それに向き合い、おのれのあり方を研鑽してゆくからこそ人格の自己形成・倫理の修養となるのであって、組み合わされるべきパーツを整えて必要となる〈要素〉がすべて満たされれば、完璧な人間になる、などということはありえない。だからこそ、本学の実学においては、人格の光を仰ぎ、自己研鑽を重ねることが謳われるのだ。人文・社会・精神というものの学を必要とする所以である。人間は迷い、ためらい、過ちを犯し、矛盾し、絶望し、自己嫌悪に陥り、ある場合に病み、またある場合に加害者となる可能性を持つ。留まり固着することがない。無限に絶対に安定的に固定的な「善」がない。このことを3000年かけてヨーロッパ諸学は各分野の中で様々な形をもって探究してきた。それが多様性の時代に結実しつつある。だが、その根本にあるのは、よくもわるくも、規定された世界と規定されない世界、秩序と混沌の間をわたる、人間そのものの存在である。悪をなしうる可能性としての人間自身を抜きにして、倫理の学も何もあったものではないのである。自分自身において、自分が「自分」を与えること。そして他者から「自分」が要求されること―このことを自己自身ないし自他の関係性の中で調停すること。これをアイデンティティの問題と呼ぶが、教養がドイツ語では「Buildung」と呼ばれるように、人格の形成における自我の問題は、実際に、様々な「定義」や「規定」の問題と類似構造を持っている。非常に簡単に素描すれば、〈言語化されない内面〉と〈言語化されたこと〉の等号/不等号、同一性と差異の関係である。これは人間と非人間との臨界点であり、いわば無の境界線である。実際の問題となるのは、原則として人間相互の関係性上の問題であって、了解と共有範囲の問題であって、したがって「限定的な承認」関係である。何をどこまで認めることができるか、あるいは、認められないか。このことは社会全体を貫く我々の倫理的課題である。これは要するに、許容されることをめぐる価値対立や許容範囲・了解の問題である。様々な問題の根っこのところに必ず顔を出すのが、人間相互の認識・承認・ルールの問題だ。込み入った話に踏み込まずに、ポイントだけを押さえてみると、「私たちは私たち自身を何ものと考えるか」「言葉によって何をどこまでよしとするか―ルール化できるか―」という二つの問題が肝要だということだ。この二つのかけ合わせによって私たちは自分たち自身の行動・判断指針を決定する。ながらく人間が培ってきた〈合意形成〉についてここで多くを述べなくてもよいであろう。それが私たち自身による―私たちが何ものか相互に了解していることに基づいた―〈設定〉であるとするならば、その都度積み重ねられる諸「問題」に対する各種の「定義」や「設定」やその他の諸形式の形成というものは、その都度の了解のもとで編み直される〈一時的〉な、諸〈目的〉に対する、「限定的な規定」となるのであって、一部始終永遠厳密にすべてを決定づけるものではありえないことが共有さ52特 集CUCの倫理教育

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