cuc_V&V_第52号
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39れるだろう。問題はまず、「私たちとは何ものか」、「私たちは私たちを何ものと考えるのか」であろう。「教育職員」とは、「事務職員」とは、という学則上の規定ということではなく、各々自身の人間性において、職務において、私たち―「千葉商科大学の教職員」とは何ものであるかを相互に了解することは、実は、あまり問題化されていないが、重要な問いなのではなかろうか。そもそも、実務レベルの規定にもいろいろと解釈があり、実務的な区分についても、人それぞれの違いに対する了解の欠如は往々にしてあるものである。だが、それらの諸規則・諸規定の眼目・目的・意味の本質はどこにあるかということで言えば、やはり、千葉商科大学がつくられた意味と理由、これを起こした創始者の考え方や希望を知るところから始めるよりほかないのではなかろうか。このことを素通りしたままでは、商大におけるすべての科目、つまりすべての教育が本質的に持つ倫理的意義も何も言えないことになるのではなかろうか。諸個人の〈倫理〉性―先ほどまさしく、個々に委ねられているところの〈良心〉と述べたのだが―の限りなき尊重を大前提としつつ、「CUCの」ということが明瞭になるためには、やはり、遠藤隆吉先生の考える思想や言葉にまず耳を傾けることが大前提の要件として必要ではないか。そもそも、倫理が危うくなるから「倫理」学が始まってしまうという皮肉がある。遠藤先生は老子を愛したが、その心を説くには、〈道〉について、あるいは、西洋・東洋の諸哲学との関係からいかなることを教育の要と見たかを明瞭にする必要があろう。道徳や倫理の下支えとなる関係性や良識、マナーもその内容・形式性は時代の中で変容する。望むと望まぬとにかかわらず、時代は絶えず変わり続け、あるべきものと当然誰もが見ていたビジョンも共有された時代感覚も関係の仕方も、それらを可能にする基礎条件が変わればどうしても維持できなくなる。生き生きした関係が―その意味さえも、もはやどういう意味か定義し客観的な分析と結果を添えなければならないのが現代というものの風潮であるが―弱体化し個別化する。関係性が閉塞していることは、もはや、キルケゴールやニーチェを待たずとも、今の学生たちは肌で感じている。まだ、なんとか、肌で感じることができている、というべきだろうか。つまり、若者たちは「天道」を知らないし、その「自ら至る」ための条件を欠いている。まして、そのことそのものに「畏れ」を感じる理由さえ、説明されてもピンとこないのである。つまり、知識はもとより、自分自身の存在や物事の本質について自ら問うこと。自分自身の価値観をそれとして改めて問い直すことが肝要なのである。遠藤先生は自ら存在(宇宙)について問いかけるとき初めて哲学が始まると言っている。だからこそ、倫●理●へ●の●学●が、実学として必要とならざるをえないのである。それは、勉強をしなくなったからだとか、堕落だとかいうだけではまったくあたらない。そういうことではなく、ただ、〈前提とされる条件を欠いている〉のである。すなわち、かつて共有されていたであろう世界観、絶望と苦難に対する共感、共通の夢に向かって切磋琢磨し合う関係性、そこで培われていたはずの信頼や信念等―こうしたものが今日いかに見失われつつあるかは論を待たないだろう。だが―こうした時代的与件がもとより子どもたちにはない。時代が違い、世界が違い、社会が違い、景色も、文化も、価値観も、食べ物も、生活も違う。生存条件の相違がここに際立っている。個人の時代である。そこに道●を●つ●な●ぐ●のが学でなくて何であろうか。誰かを助けると恨まれる、イヤホンをしていて周囲に気づかない、誰もがスマホをいじり個人世界に没頭していて熱で倒れている他者に気づかない。今や人々の〈こころ〉は死んだのかと思うこともあろう。だが、そうだ、と決して言うわけにはいかない根拠が人間自身の内にある。だから、私たちは倫理を問う。その実在如何と同時に本質を問うのである。それは人間をして、人間とは何であるか、何であらざるをえず、しかし、何でありうるかを、私たち自身が問うものであり、相互の存在への了解をみちびく手立てである。それは、〈本質〉的な問いによって独断的価値判断ではなく普遍的価値を多角的に認識し、内実を検討し、刷新的に再認識し、各自身の判断に基づいて善を実践する決意を問う。その実践が現実に問われる。と同時に、また始まりへと送り返されてきて、本当にこれでよいのか問いたずねる―こうして、おのおのの自由意志と様々な価値基準・ルールの網の目を受け止め、了解し、あるいは主張を含みつつ調整してゆく筋道をとる。その可能性や方法論・問題の様相をしっかりと学生自ら52特 集CUCの倫理教育

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