cuc_V&V_第52号
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40が根付かせ育んでゆけるのでなくてはならないのである。遠藤隆吉先生の生々主義哲学をゼロからとらえ直す必要性4人間の内面と外化された形式の関係―こと人工知能の世界においても数学的論理学の絶対性と不確定性が議論され、また、新世代の哲学においてもわざわざ〈こころ〉の実在性について議論され、実感知として科学技術の進展が人間の様々な「労働」を代理してゆく可能性が想像され、また、「実装」されようとしている今日において、私たちは、私たち自身の倫理のために、あるいはそれを千葉商科大学において培うために、どこから始めたらよいのだろうか。遠藤隆吉先生の生々主義哲学から始めてはどうかと私は思う。これが、古い言葉遣いなので、とても読みにくい。だが、にもかかわらず、面白くて、ちょっと難しくて、生き生きしているのである。それを何らかの形で多角的に相互了解する可能性をつくっていくことが、未来にわたる千葉商科大学の倫理教育にとってやはり必要不可欠の要件ではないかと感じている。『生々主義哲学綱要』において遠藤先生は生々示宇碑について触れ、その解説を与えている。そこには宇宙生成と日本の建国の物語が、遠藤先生流の言葉で、大切に描かれている。ヘラクレイトスの「パンタライ」に始まる石碑が意味するものは、単に宇宙生成論やその原理を知らしめようというものではない。どんな時代に至ったとしても、千葉商科大学に学ぶ人が、その人自身が生きている生き生きとした原事実から出発する意味を説いている。つまるところ、宇宙生成から自分自身が生きていることそのものへの問いと気づきへの冒険に誘っているのだ。人類が重ね続ける哀しみの連鎖を断つための学びとして〈ロゴス〉がある。これがまた、人間の本質なのだということに意味がある。そして、学生一人一人の〈生〉の本質へのまなざしが、深い絶望の影さえも照らす光となること。学生一人一人が、自分自身の人生をよくよく大切にしたうえで、自分なりの「目標」や「理想」に向かって挑戦することを遠藤先生は応援している。武士的精神については新渡戸稲造の武士道が挙げられるが、古来より日本人が大切にしてきた道徳・価値観の源泉について新渡戸が武士にその範型を求めたように、当時の武士たちが前提にしていたものが何だったのか、その生活の中で培われたものが何だったかを探ることで、より一層脈々として今日受け継がれるものが何か明らかになるだろう。儒教、道教、日本の建国の歴史、精神性の前提。そこに学の呼吸があるであろう。様々な道徳・家訓・実存的価値基準が育まれた背景に〈道〉がある。古来中国より伝え来ったものと日本古来からの生活文化が折り重なり合うところに、多くの示唆が隠れているのではないだろうか。倫理への学として:温故知新と実学の可能性5「倫理」は一科目で単位を修めて収まるものではありえない。むしろ、全学年を貫いて、全科目を修学して磨き抜かねばならないことをはっきりさせておきたい。それも、卒業して終わるものではありえず、社会のなかで各人の誠実な働きが人々を助けるように、いつまでも追究されるものである。各科目はむしろ一人の人間としての倫理性を育むための、「地球規模的諸問題」「自由と多様性」「環境と持続可能性」といった普遍的課題に関する具体的な知識・方法・技術論にほかならない。それらの知識なしに、どうして具体的に実践しうるか。そこにこそ大学での学びの価値がある。諸学の基礎としての教養を育むこと、自分自身の倫理に照らして幅広く物事に触れ、あるいは問い、あるいは専門的に研鑽を積むこと。一人の人間としての自己研鑽ということが肝要である。だからこそ、遠藤隆吉先生の言う「実学」とは、「実社会に役立つ」学びであるとはいえ、社会に迎合するものではありえず、真に自分自身の人間性を培うこと、「人格」の養成を意味するのである。真に新しいものは培われた土台を通じて生まれ出る。温故知新である。武士においてそれが肝要であったように、未来社会を生きる上で千葉商科大学のあらゆる教育が学生にとっての人格と倫理の「土台」として生き、彼・彼女らが笑顔で羽ばたいてゆく姿を見送ることこそ、私たちの理想といえるのではないだろうか。52特 集CUCの倫理教育

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