cuc_V&V_第53号
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3653トピックス1.メメント・モリの時代―死に向かう社会のなかで「少産多死」社会を生きる日本社会は「少産多死」の時代に移行しつつある。それは深まっていく「少子高齢化」の、よりあからさまな表現である。そうした時代には、人生の始まりよりもむしろ、人生の終わりに向き合う機会が多くなる。「諸行無常(すべては移ろう)」や「メメント・モリ(死を想え)」などの標語が語るように、古より人類は死について考えてきた。とりわけ戦争や疫病や飢饉の時代には、死に向かっていく社会意識は相当に色濃かったであろう。しかしながら、なにかしらの非常事態が死のとば口を照らし出すことなしに、日常そのものが平和のうちにおびただしい死を実現していく時代、現在をさし障りなく生きることがそのまま社会全体の収縮をもたらす時代の到来は初めてだろう。今日、私たちは自覚的に〈死にゆく今〉を生き、社会はそれを再帰的(自己反省的)に再生産している。〈死にゆく今〉を永続させるメディア・テクノロジー死にゆくはずの今を、理念的には永遠に保つテクノロジーがある。それはいわば「不死の技術」であるが、それこそがメディアである。メディアは人間の記憶を外部に保存する媒体であるからだ(Stiegler、1994)。文字や写真や録音や動画やコンピューターによって現在を記録するということは、やがては滅びる人間の肉体に代わって、メディアというテクノロジーがその記憶を持続的に保つことである。これは考えてみれば、途方もないことだ。神をも恐れぬ人類の自然法則への抗い、時間法則に対する越権行為とも言える。少子高齢化社会――社会の終わりに意識的に向き合うような社会――において、神をも恐れぬ人類は何を考え、実行していくのだろうか。不死の技術としてのメディアを用いて、人類の集合的記憶をどこかにプールするのではないか。「少産多死」の繰り返しが人類の物質的な肉体を消し去ろうとも、宇宙の法則を超えたそのどこかに――。その場所がインターネット上のサイバー空間だとすれば、「メタバース(超宇宙)」を創造することの真の目的、人類の根源的な目論見が近いうちに本格的に自覚され、共有されることになるかもしれない。このことは非常に興味深い題材ではあるが、人類史の行方を物語る仕事は、「超ホモ・サピエンスの時代へ」私たちが突入していると喝破するユヴァル・ノア・ハラリ(2011)などの歴史学者に任せることにしたい。私はライフストーリー研究者として、映像社会学者として、〈死にゆく今〉を記録することの地域社会における意義や、人生という人類史に比べれば小さな、しかし豊潤な物語における意味について語ることにしよう。本稿の構成本稿では、最近出版された2冊の本のなかで筆者が執筆したケーススタディを紹介する。次節の第2節では、「私の人生を歌える?―ライフストーリーのビジュアル化とサウンド化」(岡原正幸編メディアとしてのライフ〈死にゆく今〉を記録する千葉商科大学政策情報学部 専任講師後藤 一樹GOTO Kazukiプロフィール1983年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業、映画美学校フィクション・コース修了、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了後、ドキュメンタリー番組制作会社、新聞社勤務を経て、慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程修了。博士(社会学)、専門社会調査士を取得。日本学術振興会特別研究員(DC2)、慶應義塾大学非常勤講師、国立民族学博物館外来研究員を経て現職。専門は社会学(移動と地域社会)、映像制作(メディア論)、ライフストーリー研究(質的調査)。

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