cuc_V&V_第54号
43/64

41評価につながる」という点があったかもしれない。また、学生たち自身が述べているように、「ほかの人の考え方を知ることができること」に価値が見出されていた、といえる。300人分のコメントを毎回読んで、毎回これについてフィードバックを返す、という点は、はじめは非常に強い不安を感じていたが、ふたを開けて実施してみると、授業の中では、多くとも5つの意見くらいしか紹介できないので、全体フィードバックと紹介コメントでそれなりにまとまりはしたように思われる。また、上のような運用状況だったので、毎回必ず300人分を読まなければならなかったわけではなく、大体100件前後分くらいを一気に読んでゆく、というスタイルだった。ただこれは、「オンデマンド」「リアルタイム」食い違い形式でのことなので、必ずしも「リアルタイム」「オンデマンド」形式に一本化したところでこの運用で済まされるとは限らない。さて、はじめて取り組んでみた「全体チャット」であるが、結果から言うと「可もなく不可もない」といったところだった。というのも、「参加のノリが良い」ときと「参加のノリが悪い」ときとがあった。その原因を考えることはなかなか難しいが、「答えやすさ」や「誰かの回答が新しい回答を生んでゆく」流れが生まれるかどうかにかかっていた。そしてその流れが生まれるかどうかは「設問」の良し悪しに依っていたと推察する。これがなかなか難しい。いい問いが設定できると、結構異なる回答でもどんどんと意見が出てきた印象がある。あっという間に時間が過ぎてしまう場合と、全然意見が出てこない場合とがあった。後者の場合は、やっぱり「どっちともいえない」場合にこうなることが多い。そして、チャットになると、「個人の発言」ということが強調されるためか、オープンチャット的に話すスタイルの確立には到底至らなかった。話が前後するが「授業ミッション」でのフィードバックでは、「発話者」が特定できない形にしてある。匿名性を担保することで、本当に考えていることをなるべくそのまま表出してもらおうという企図による。そして、それが功を奏しているようである。これに対して、オープンチャットは、つまり「ちょっと変なこと言っちゃうとそれがそのまま残ってしまう=自分のイメージ価値減退」ということがあるだろう。これは非常に厄介である。なので、冗談交じりに聞こえるかもしれないが、匿名性を担保した参加の仕方が選択できると、もう少し違った雰囲気にはできるかもしれない。だが、ここまでくると、そもそも「対話」を旨とする哲学の本質はなんだか夢のまた夢のように思えそうである。だが、実際には、そうまでして「匿名」的であることによって、はじめて自身の本質を表出できるようになる、ということなのである。この世界性の転倒こそが現代の特徴であるといえよう。学生たちはオンライン的な文字表出の世界では「個人を特定」されることをとても嫌がる。その一方では「個人として承認されたい」ということになる。なかなか難しい矛盾がある。受講者自身には、この「オンライン」形式での受講というものはともすると「先生対自分」だけの感覚に陥ってしまう危険性があるように思われる。対面形式の授業で、教室に120人前後が入っていて、教壇上で講師がわあわあ言っているのを見ている学生たち―という図の中では、おそらくこうした「個別的感覚」とはまた違ったものであっただろう。教室で何となく向き合いながらそこに居合わせているという場合は、それが良いかどうかは別としても「準共有的感覚」であったように思える。そのどちらのほうがどれほどよいかどうか等はまた別の研究を要するところであろう。個々人としては、個別の意識で内容について学びつつも、空間的には、様々な主体とともにそこにいる、という場の形成がオンラインでできるかどうか。こうした方向性については、おそらく、バーチャルとリアルのかけ合わせから生まれてゆく未来型指向性として想像に難しくない。それがおそらく「生活レベル」で可能になる日は遠くない。したがって、〈学園のキャンパスで行われる授業〉というものがどういう形を可能にするものでなければならないか、そのイメージなり本質や方向性をしっかりと議論し筆者たち自身が認識する必要はあるだろう。50人に履修者を限定し、対面での「対話」に力点を置こうと考えた倫理学のクラスでは、①授業ミッション、②ミッション・フィードバック、に加えて、③クラストークの時間を設け、文字通り、直接対話の時間を設定した。①と②については、大人数クラスとほぼ4少人数対面授業における企図と結果

元のページ  ../index.html#43

このブックを見る