cuc_V&V_第54号
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42同様の成果を得た。問題は③クラストークである。2回に1度くらいの頻度でクラストークを実施したかったのだが、結論から言うと、1年生から4年生までが混合で参加するクラスで、価値観や善悪の問題を問題にする直接対面での対話において、活発的に議論が生まれたかというとこれはかなり難航した。そもそも直接他者と対話することそのものがすでにハードルになっていた。プロジェクトの企画であれば、楽しいアイデアを発案したり、それに必要な作業やデータ収集など、また違った楽しみ(と苦しみ)があるであろう。だが、こと「倫理」にかかわる部分となると、題材が非常に重い。問いも、問いを設計する対話態度も、発言方法も、要するに非常に技術や知識を要することとなるのである。1年生にとっては難しく、歯がゆい部分もあったようである。活発な議論ではなく、重く、難しい問題に向き合って、うんうんと唸る時間も必要であろうし、そういう時間が「ふだんのくらし」の中にそうあるものとは限らない。その意味では、それはそれとしての価値はあるかもしれない。だが、やはり、ひとつひとつの問題を掘り起こしてゆくには、それなりの訓練が必要である。もちろんそのために、先に履修すべき科目として「哲学」を挙げてはいるが、例えば研究基礎では「対話」の基本的な態度や発話練習などの機会を設けてあることが不可欠だと気付かされた。それでも、うまく話せなかったけれども、貴重な考えや経験について話を聞かせてもらえたことは、自分にとって良い経験だったという意見もある。対面であればもう少し「軽めのワーク」を取り入れて、もう少し問題をポップにしてみることも可能だったかもしれない、とは思われるのだが、倫理を問う問いにおいて「軽めのワーク」を開発することはなかなか難しい。これは重要な課題ではあると思っている。自身が気づいていない自己性の問題に気が付くこと、その問題について態度をとり、言語化すること、他者に説明すること、これを再認識すること。こうした一連の過程が生まれることが重要である。だが、それを「明示化された問い」に対する応答として引き出させることだけでは、意味がない。他者との対話の中で、自己が、また他者が発見される時空間でなければ意味がない。そのように考えると、「軽めのワーク」も「重めのトーク」も、どちらも程よく混ざり合った場を作ることが望ましいのかもしれない。しかし、いずれにしても、筆者自身は中途半端に様々なギミックを持ち込むことよりも、この時間はしっかりと沈潜する、というような一つのコンセプト、一つの方向性で一貫するくらいのスタイルがあったほうが、参加する学生たちも「なじむ」ことができるのではないかと考えるようになった。大人数オンライン授業と少人数対面授業の実施企図と結果を見てきたが、簡単にクリアできるものではないなというのが実感である。が、両者の間には共通する課題が見えた。それが、①関心性、②持続性、③双発性である。①関心性の課題というのは、要するに「関心の深度によってアクセスの良さと理解の深まりが生まれる」ということだ。無関心であればあるほどどうでもよい態度になる。非常に単純な話だが、「関心」についてそもそもの研究が必要である。構造構成主義では関心相関性という概念が提唱されているが、要するに、世界の世界性は関心相関性で形成されているという話である。どれだけ「学生一人一人の心のツボに刺さるポイントを用意するか」は次の課題であろう。②持続性の課題というのは、要するに「関心度合い」にはムラがあり、波があり、落ちている状態で引っかからないと人は遠ざかってゆく、ということである。それぞれのバイタルや精神、気分など様々なものが、実際には絡み合う。個人がどう思うかは関心相関性で説明できるが、実際には「授業」というのは「その時間を複数者で共有しなくてはならない」状況となる。それは一人の世界ではなく「複数共在性」の世界だ。個々の関心度合いは、その人自身のうちに脈打つ基礎トーンだとして、複数共在性の世界では、参加態度や共鳴表象がまた個人間の相互的・複合的な相関感覚をうみだす。この共在性を意識した授業設計を目指したい。そのことで、双発性が生じることに期待したい。関心には広がりと深まり、発見と自由が必要で、これらが健康に生まれる状況にあることで関心持続性は生み出されるだろう。双発性のための仕組みをさらに開発する必要がある。③双発性の課題というのは、要するに「表現する力」5共通課題と克服の可能性・プレシャスネス

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