View & Vision No55
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7922 MWG I/22, S.251=前掲『都市の類型学』284頁。23 14世紀に入ると大都市には大時計が設置され、時間がいっそう機械的に精緻に分割されていく。ル・ゴフは、すでに14世紀に、市長たちが「自分たちが作る法令によって、他の鐘ではなく、この都市の鐘楼に設置させた鐘を鳴らす」ことを求めた例を紹介している。ジャック・ル・ゴフ「14世紀の「危機」における労働の時間――中世の時間から近代の時間へ」『もう一つの中世のために――西洋における時間、労働、そして文化』白水社(2006)76頁。24 それら専用の鐘も次々と作られ、鐘塔が建てられていった。そうだとすると、依然として鳴り続ける教会の鐘も含め、都市は鐘の音がひっきりなしに鳴り響く空間であったろう。25 MWG I/18, S.129=前掲『プロ倫』17-18頁。26 MWG I/18, S.193=前掲『プロ倫』80頁。27 利子問題について、本稿で論じることはできなかった。沢崎堅造『キリスト教経済思想史研究』未來社(1965)および大黒俊二『嘘と貪欲――西欧中世の商業・商人観』名古屋大学出版会(2006)を参照。家産官僚制的国家の台頭する時代となっていた。教会勢力と都市との緊張の解消は「もはや諸都市の役には立たなかった」のである22。しかし、宗教改革は都市の自治とは別の意味をもった。改革で説かれた信仰義認は、鐘の音が悪魔を追い払ってくれるという俗信の排除(脱魔術化)に貢献し、教会の鐘による時間支配の独占を打ち破り、都市市民の時間意識を転換させたのである。都市権力は、教会の鐘に対抗するかたちで都市内に鐘楼を設置し23、都市の鐘を世俗の集会や仕事の開始と終了の合図などに使用するようになっていく24。それは教会の鐘楼と向かい合うことも多かったろう。都市に時計が設置され、市民が都市の鐘を生活の基準とするようになったとき、教会による時間の独占は終わりを告げたのである。しかし、教会による時間支配が都市による支配、さらに近代国家による時間支配に変わっても、修道院の〈理念〉に発した時間分割の軌道の上で、支配にともなう物質的また観念的な〈利害関心〉が走り続けていることに変わりはない。こうした支配の転換を考えるうえでは、『プロ倫』冒頭で語られた「新たな支配」の問題に目を向けておくべきだろう。すなわち「宗教改革が生活に対する教会の支配を排除したのではなく、むしろ従来の支配の形態とは別の形態による支配に置きかえた」にすぎず、しかもその新たな支配が「果てしなく煩瑣な、かつ生真面目な、生活態度全体の規則化」を求めてくるという指摘である25。分割された時間は、教会の時間であろうと都市の時間であろうと「人格を顧慮しない」で経過していく。人格から切り離され、それが誰かに関わりなく経過する時間の経過を鐘の音で告げて、それに合わせて行動する。(人間離れした生き方をする)方法的な生活態度へと規律化する大前提が、時間の分割である。だが、分割され計測可能になるのは時間だけではない。いや、神のものであった時間すらも分割され、人間によって計測される対象となったのだと言い換えよう。あらゆる物事が数量化の魔力(Zauber26)に捕らえられたのである。中世からすでに利子を正当化する論理が展開したし27、カルヴァン派においては宣教した数を増やすことが神の栄光を増やす事業と考えられるに至る。そして現代、一人の人間も匿名化した「人口」の一部と化し、浜の真砂に匹敵するほどのビッグデータの一部となる。分割された時間を自明視する現代世界では、もはや分割することそのものではなく、分割の微細さが競われ、人間離れした次元でスピードが問題になっている。修道院における時間分割にはじまった生の一体化、生活態度の方法化によって進展する世界の脱魔術化は、数量化という新たな形の魔術化と表裏一体なのである。もとより本稿で検討した時間分割に関するヴェーバーの考察も、生き方=生活態度の方法化という特定の観点から、時間の歴史を理念型的に取り出して再構成したものにすぎない。しかし、職業人=近代人の特殊な生活態度の形成過程という観点に立つことで、ヴェーバーは、中世の修道士と近代人とのあいだにある連続性を見出したのである。「祈りと労働」という〈理念〉が、常人には不可能と思えるほど規律化した生き方の優位へと方向転換させ、その軌道の上を、時間支配の観念的な利害関心(鐘、暦、世界標準時争い!)や時間利用の物質的な利害関心(利子、為替、あらゆる商行為!)が走り続けてきた。現代人は自らがその上を走っている〈理念〉から切り離され、ただ不安のなかで目の前にある〈利害〉に機械仕掛けの時計のように駆り立てられているといえる。古代から近代まで長期的なスパンで語られるヴェーバーの歴史社会学が、すぐれて現代的な意義を持ちうるのは、歴史的に因果連関をたどるにあたって一元論に陥ることなく、行為を支配する〈理念〉の作用と 〈利害〉のダイナミズムを複眼的に捉えようとしたからであろう。自己の議論の一面性を方法的に自覚した上で、既存の学説や概念を解体して再構成し、歴史と世界の見え方(コンステレーション)を刷新しつづけたその精神に学ぶ意義は、今なお大きい。数量化の魔力

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