View & Vision No55
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が非常に発達しており、簿記がしばしば公共施設の壁に刻まれていた。ただ、その記録は時系列に並んだ単純な受け払いの一覧表であり、これらの記録の主な目的は、役人による執政の会計責任を記録することであったため、そのレイアウトは「不格好で分かりにくい」ものであり、情報は集計されず、支出は照合も要約もされていなかったという(De Ste. Croix 1956, p.26)。なぜ古代ローマにおいて簿記が発達しなかったのかという問いに対しては、当時の社会における経済的な問題への関心の低さが原因となっていたことが指摘される(Macve 2002, p.455)。当時の経済活動は奴隷に大きく依存し、同胞から収益を得ることに抵抗があったため、経済的な問題への関心が阻害されていたという(Macve 2002, p.454)。一方で、ローマ帝国が領土を拡大するにつれ、ドナウ川から北アフリカ、スペインからカスピ海に至る共同市場が形成され、大規模な交易の機会が生まれた。このような経済圏の広がりに伴い、簿記もまた広く使用され、発展を遂げていたという見解もある。例えば、Rathbone(1994)は、ローマ時代の帳簿の唯一の目的は不注意や不正に対するチェック機能であるという考え方に異論を唱え、特に3世紀のローマ帝国エジプトのアピアヌス領においては、単なる権利と義務の追跡という機能を超えた、コスト管理とパフォーマンス測定を含む、中央管理の会計システムを明らかにしている。また、ローマ帝国が領土を広げたため、地方の役人は税収と支出を詳細に記録することが法律で義務づけられていた。これは、若い政治家志願者が名声を得るための方法として法院での起訴が定着していたため(Finley 1992, pp.150-151)、汚職の容疑をかけられないようにするための予防策でもあったという。法廷での武器として簿記が使われていたという事実は、法的証拠としての重要性を物語っている。特に、古代ローマ時代において興味深い文献であるケリス農業会計帳簿(Kellis agricultural account-book)は、木製板の形で残存する包括的な会計文書である。小規模な事業であるにもかかわらず、ケリス農業会計帳では業績の管理よりも在庫や借主の義務の追跡に重点を置いていたという(Kehoe 1999)。Puyou and Quattrone(2018)によれば、ケリス農業会計帳のレイアウトは、取引のグループ分けと表示に対する定型的アプローチを反映しており、ローマ社会における会計の権威づけにおいて重要な役割を果たしたと主張している。このように古代ローマ時代における簿記の特徴は、さまざまな状況に対応できる汎用性の高さである。財産、権利および義務の追跡、財産管理人への責任の追及、信頼性の確保、貿易・農業・行政に関連した情報伝達、法廷で強制力を持つ法的記録としての役割など、古代ローマ時代における簿記は多岐にわたり利用されていた。初代皇帝アウグストゥスの即位から帝政に移行したローマ帝国は、形式的には1453年のビザンツ帝国滅亡まで存続していたが、実質的には395年の東西分裂によって社会や文化が大きく分かれるため、ここでは西ローマ帝国と東ローマ帝国に分けて取り扱うこととする。東西にローマ帝国が分裂した後、5世紀に西ローマ帝国の権威が失墜してからの400年間は、証拠となる文献がほとんど残されていないため、一般に「暗黒時代」と呼ばれる。この時代は、ゲルマン民族がローマ帝国の領土に侵入し、東部と南部のローマ帝国の大部分がイスラム軍に征服された激動の時代であり、西部ではフランク王国が成立し、フランス、ドイツ、北イタリアを支配下においた。しかし、証拠となる文献が存在しないからといって、記録が存在しなかったわけではない。この時代における現存する最も重要な書類の1つは、御料地令(Capitulare de Villis)である。御料地令は、8世紀末にフランク王国の皇帝シャルルマーニュが起案した、領地の管理に関する一連の指示文書であり、帳簿の作成方法が規定されている(全文はLoyn and Percival 1975, pp.68-73を参照)。御料地令では、領地調査書と賦課金・配当金計算書が並列していることから、中央が分散した資源を遠方から管理するという目的があることがわかる。古代ローマ時代における簿記の主な目的の一つは、役人の不正や過失による損失を明らか11(1)西ローマ帝国3ローマ帝国

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