View & Vision No55
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45にすることであったため(De Ste. Croix 1956: p.38)、御料地令の目的と合致するものである。すなわち、西ローマ帝国の崩壊が起こったとしても、必ずしも古代ローマにおける簿記の慣習が完全に途絶えることはなかった可能性がある。4世紀にはローマ帝国の政治・経済の重心は東部に移り、東ローマ帝国は一時地中海全域を支配した。しかし、その後に再びゲルマン民族の侵攻を受け、東ローマ帝国の支配はギリシャ・小アジアを中心とした東地中海域に限定されるようになり、7世紀からはビザンツ帝国と呼ばれるようになる。1453年にオスマン帝国に「陥落」するまで1000年以上の間、ビザンツ帝国は隣国と貿易を行い、イタリア簿記やイスラム簿記は互いに影響を与え合う環境にあった。しかしながら、Baker(2013)が指摘するように、会計史の研究においてビザンツ帝国の簿記に関する論文はほとんど掲載されていない。Laiou(2002)には、特に会計や簿記に関する章はないが政府、領主、教会による簿記への言及がなされており、ビザンツ帝国が、政府や人々の言語としてラテン語からギリシャ語を用いるようになったにもかかわらず自分たちをローマ人と呼び続けたように、古代ローマにおける簿記慣習も継承したと考えられている。1119年にパレスチナのキリスト教巡礼者を保護するために結成されたテンプル騎士団は、現金出納帳と各取引を一つの勘定科目にのみ記録する単式簿記にもとづく表形式の簿記システムを採用していたことが明らかとなっている(Bisson 1989, pp.287-292)。この表形式簿記の由来は、蝋板(tabulae cerague)に記録を残していた古代ローマ時代にさかのぼることができる。会計帳簿のうち日計表(adversaria)に貿易におけるすべての取引、債権、債務が記録され、これらの会計データは日計表から表形式の元帳(tabulae rationum)に転記される。この表形式の元帳における最大の特徴は、各勘定科目につき借方および貸方が設けられていたことである。しかし、表形式の元帳に行われる記帳はすべて単式記入であり、複式記入されることはなかったという(Martinelli 1974, pp.174-184)。複式記入による場合、すべての記入を単一の通貨で記録する必要があるが、表形式の元帳は単式記入であったため、さまざまな通貨で記入できるという利点があった(Martinelli 1974, pp.265-267)。表形式の元帳は、特定時点における財政状態を把握することのみを目的に作成され、12世紀における小規模で狭い範囲での活動には十分に対応できており、13世紀から14世紀にかけて商業活動が盛んになり、財政状態に加え経営成績を把握することが望まれるようになるまで使用されていたという(Martinelli 1974)。この表形式簿記は、複式簿記の前身であった可能性が指摘されることがある。しかし、複式簿記の出現は地域により異なることや、複式簿記に関連する動詞の用語法から、表形式簿記が複式簿記に発展した可能性を否定する見解もある。これらの見解を踏まえると、表形式簿記の影響を受けながらも、異なる性質、異なる形式の新しい記入方法として、その後に複式簿記が生み出されたと考えることができる。中世イタリアでは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、シエナおよびフィレンツェなど多くの都市国家が発展した。その中でも、複式簿記が最初に出現したのは地域として、しばしば指摘されるのは、シエナやフィレンツェを含むトスカーナ地方である。これは、複式簿記と思われる最古の事例が1211年にフィレンツェの銀行が作成した羊皮紙片にみられるためである。この羊皮紙は各ページが縦に2列になっており、横線で勘定科目が区切られている。各勘定は2つの列のうちいずれか1つの列に記入され、どちらを先に記入するかによって借方または貸方が決定される仕組みとなっている。この羊皮紙は、Pietro Santiniの著書『Frammenti di un libro di banchieri fiorentini scritto in volgare nel 1211』によって初めてイタリア語に翻訳され、その後Lee(1972)およびMartinelli(1974)は、これを英語に翻訳し、使用されている用語や記録について分析をおこなった。Lee(1972)によれば、この羊皮紙の記録は、比較的少額の融資と返済に関するものであり、フィレンツェ、ボローニャ、ピサで活動する本12(2)東ローマ帝国テンプル騎士団中世イタリア

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