View & Vision No55
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労働力市場が形成された時期である。それまでは旧ソ連と同様に「労働保険」という言葉が使われていた。このことから分かるように、中国の社会保障を考察する際に「体制転換」、つまり計画経済から市場経済への移行が重要なポイントである。計画経済期の中国では、労働力市場は存在しなかった。都市では国家による労働力の統一配分によって、農村では自然就業によって、建前上失業のない「全面就業」が実現されていた。ただし、「全面就業」の実現はそもそも都市と農村の分断を前提としており、さらに戸籍制度によって都市と農村の人口移動が厳しく制限され、その分断が強固なものとなっていた。また、当時の重工業優先発展戦略は中国の資源賦存状況(資本が少ないのに対して,労働力が多い)に合致していないため、「全面就業」を維持することが困難で、実際は都市での過剰雇用が常態化し、それでも吸収しきれない余剰労働力を農村に送り込んでいた。この時期に、老齢や病気、出産などのリスクに対する保障システムも「全面就業」とセットとなっているため、重工業優先発展戦略のもとで都市住民、とくに重工業部門の正規労働者を優遇する選別的なシステムであった。それが都市においては国有企業を中心とする「単位」(勤務先,職場)によって運営されていた労働保険制度である。農村においては「人民公社」によって運営されていた合作医療制度と「五保戸」制度があったが、労働保険と違い、住民の相互扶助に近いものであった。中国の社会保障を考察する際の2番目のポイントはまさにこの都市と農村の二元化である。また、この「国家―単位」保障は資本主義社会の社会保障制度と異なり、すべて第一次分配として実施されており、個人の拠出はなかった。計画経済期に形成された都市VS農村という二元化社会構造は、改革開放後も存続している。社会保障制度に関しても、「先都市・後農村」という二段構えの構築過程が観察できる(朱2014)。市場経済の導入により、国有企業は国の指令下で動くワークショップではなくなり、民営企業や外資企業と競争し、利益を出さなければならなくなった。多くの余剰人員を抱えている国有企業は業績不振のうえに、従業員の保険料も重荷となった。国有企業改革を推進するために、従来の労働保険を改革する必要があった。1990年代の国有企業改革の本格化にともない、社会保険がつくられ、さらに、アジア金融危機をきっかけに、都市での制度体系が一気に成立した。1998年に、国有企業に対して「3年間で苦境脱却」という号令がかけられ、ラディカルな改革によって、大規模なリストラや人員削減を余儀なくされた。その結果、「失業洪水」・「一時帰休洪水」(胡1999,13)と称されるように、大量の余剰人員が「下崗」(一時帰休)という形で労働力市場に排出された。彼らの生活保障問題は最大の政策課題となり、1997年から1999年にかけて、都市企業の従業員を対象とする基本年金保険、基本医療保険、失業保険および最低生活保障が次々と制度化された。特に、失業保険と最低生活保障の成立は中国の社会保障体系にとって重要な意味をもつ。建前上「失業のない社会」と標榜している計画経済期には、失業保険は存在しなかった。失業保険の成立は中国が、資本主義国家と同じく市場メカニズムによって経済を運営し、労働力が「商品化」されたことを意味する。最低生活保障は政府から最低生活の物資援助を得ることを国民の権利として規定し、国民の最後のセーフティネットとなった。このように、1990年代末に、国有企業から大量にリストラされた余剰人員の生活を保障するために、社会保険を中心とする社会保障制度体系が都市でまず成立した。いわば、労働者を中心とした失業・貧困問題に対応するため、成立したのである。2000年以降は、「三農問題」(農村の荒廃、農業生産性の停滞、農民の貧困)が大きな社会問題としてクローズアップされるようになった。「和諧社会」(調和のとれた社会)というスローガンのもとで、農民や自営業、無業者(学生、主婦、障害者)といったこれまで社会保険から排除されていた者への対応が開始された。2003年に新型農村合作医療制度が、2007年に都市住民基本医療保険制度が導入された。2009年に新型農村年金保険が、そして最後に、都市住民年金保険が2011年に成立した。しかし、2011年の制度体系は実は格差を内包している。正規被用者と非被用者とに、また都市と農村とに制度が分かれているため、「断片化」された制度体系と呼ばれている(岳2010)。その後、2014年に年金172.「皆保険・皆年金」の成立

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