View & Vision No55
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45保険、2016年に医療保険における都市住民と農村住民の制度統合が行なわれた。以上のように、中国は職域保険と地域保険を組み合わせた「混合型社会保険」により、「皆保険・皆年金」を実現している。社会保障の制度改革が始まった1980年代半ばは、中国における農業従事者は約6割にのぼる。全国民を対象とする制度づくりも考えられるが、国有企業改革の遂行を優先し、国有企業労働者の権益を温存するため、職域保険が先につくられた。その後、農村住民、最後に無業者・自由業者を包摂するようになった。中国社会保障の制度間格差は、つまり国の重要戦略に近いグループほど社会保障の受給において優遇されるということであり、岳・方はこれを「福祉距離」(Welfare Proximity)と呼んでいる(岳・方2020)。東アジア諸国は西欧諸国より遅れて近代化を経験した。福祉においても、西欧諸国が「先発国」であるのに対して、東アジア諸国は「後発国」と呼ばれている。日本も従来「後発国」のグループに属しているとみられていたが、社会保障制度の「フォーディズム的拡大」を経験したということを考えると、日本は「先発国」グループに入り(金2022)、フォーディズムを経験していない韓国と中国は「後発国」グループに入る。では、中国と韓国は「皆年金・皆保険」の達成までに同じプロセスを辿っているのであろうか。韓国では、まず1964年に医療保険制度が実施されたが、任意加入の制度のうえ、適用対象がかなり限定されていたことから、有名無実の状態が続いた。1970年に全面改訂が行われたが、その際、労働者、軍人、公務員は強制加入対象となり、自営業者は任意加入のままであった。1977年に、500人以上の事業所の強制適用を始め、職域医療保険として本格的にスタートした。1980年代初めから、専門家による「地域医療保険」の重要性が指摘されていたが、政府は財政補助を忌避し、実施は1980年代後半まで待たなければならなかった。1988年に、職域医療保険は5人以上の事業所へと適用対象を拡大し、同年、農業村地域の住民を対象とする地域医療保険を、1989年に都市地域の自営業者と住民を対象とする都市地域医療保険を実施した。年金制度に関しては、1973年に国民福祉年金法が制定されたが、石油危機などにより、実施が無期限延期となった。その後、1986年に国民年金法が制定され、1988年に実施された。当初は従業員10人以上の事業所に適用されていたが、1992年に従業員5人以上の事業所に、1995年に農村地域の住民へと適用対象が拡大された。残された空白地帯は都市地域の住民であるが、1999年に適用され、皆年金を達成した。以上のように、韓国においても中国においても、社会保障制度の適用対象が都市労働者から農村住民、そして都市住民へと拡大されていたという共通経路が発見できる。そして、達成時期もほぼ同じである。後発国の社会保障の発展は経済発展との関係からみると、以下のような4段階のプロセスがあるとされている(広井2003、13-14;大泉2018、222)。①農業中心の前産業社会においては、大家族や共同体の内部における相互扶助が生活保障の機能をしている。②その後、工業化が進み、農村から労働力が流出し、工業化にとって重要な都市労働者(被雇用者)を対象とする社会保障が構築される。③しかし、核家族の進行や若い労働力の流出により、従来の相互扶助機能が弱まり、都市と農村の格差が社会の安定を揺るがし、社会保障制度は農業・自営業者へと国民全体に拡大していく。④さらに経済が成熟していくと、高齢者や子どもといった従属人口の問題が浮上し、従来の社会保障制度への改編が余儀なくされる。そのうち②と③は社会保障制度の拡大期に当たるが、「皆保険・皆年金」体制になるかどうかはまた別の話である。経済の高度成長と圧縮された近代化が、「皆保険・皆年金」達成の必要条件であるが、十分条件ではない。韓国や中国、台湾およびタイの状況をみると、アジア通貨危機後に国内で大量の失業・貧困問題が大きな社会問題になったかどうかこそ「皆保険・皆年金」達成の分水嶺と思われる。中国は「後発国」と呼ばれる国・地域と同じプロセスを辿り、全国民を対象とする社会保障制度体系が成立したとはいえ、やはり中国版の「皆保険・皆年金」である。計画経済から市場経済への体制転換にともない、社会保障改革が行われていたため、計画経済時期の遺制は新しい制度づくりに大きな影響を与えた。そ18東アジア的道中国的制度設計

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