View & Vision No55
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6 リチャード・J・エヴァンズ(今関恒夫・林以知郎監訳/佐々木龍馬・與田純訳)『歴史学の擁護―ポストモダニズムとの対話―』(晃洋書房、1999年)、2頁。7 同上、78頁。8 同上、195~198頁。し客観的な歴史が存在しないとして、歴史研究に価値はあるのかという問題はこの数十年間で重要なものになった。その中でも最も重要なものが、1980年代頃からその影響力を増したポストモダニズム(postmodernism)を支持する研究者による批判である。ドイツ史の専門家であり、ポストモダニズムと歴史学の関係に関する代表的な研究である『歴史学の擁護』を著したリチャード・J・エヴァンズ(Richard J. Evans)は同書において、「今や『歴史とは何か』ではなく、『そもそも歴史研究は可能か』が議論の焦点になっている」と述べている6。ポストモダニストの歴史学者に対する最大の挑戦は、彼らはすべての歴史はフィクションに過ぎないと主張したことである。ポストモダニストの代表的な論者の1人であるジャック・デリダ(Jacques Derrida)は、言葉とは相対的なものであり、すべての言葉は「テクスト」であると主張している。エヴァンズはデリダの主張を以下のようにまとめている。それに対してジャック・デリダのようにその後に続いた理論家は、論をさらに推し進めて、言葉が発話されるたびに相互関係は変化していくと論じた。言語はそれゆえ「意味表示の無限の戯れ」のさまを帯びることとなった。それ自体で意味を決定する「超越的な意味されるもの」などもはや存在しえない。すべては言葉の組み合わせにすぎず、すべてのものは「言説」ないし「テクスト」となっていった。言葉の外部に存在するものなど、何もない。われわれが世界を認識するのは言葉を通じて以外にありえないのであるから、すべてのものはテクストと化すのであった7。確かにデリダの主張は、言葉の解釈というものはある程度恣意的なものであり、したがって完全に客観的な歴史など存在しないということを明らかにしたという点で大きな価値がある。しかし、他方で言葉の解釈の仕方は無限に存在するという見方は行き過ぎである。例えば、「明日の天気は晴れです」という文章を「今日の晩ご飯はカレーにしよう」と解釈することは極めて困難である。明日の天気の話と今日の夕食の話には関連性がないからである。もちろん、翌日の天気が晴れの場合にはその前日の夕食にカレーを食べる習慣がある人物の発言であるのなら、上記のような解釈は意味が通るが、そのような人物は一般的に見て少ない。このように、言葉や文章の解釈は文脈によるため、文脈に存在していない意味を見出すことは不可能である。また、日本の文豪である夏目漱石が、‘I love you’をどう訳せばよいかと聞かれた際に、「月が綺麗ですね」と訳せばよいと答えたという有名なエピソードがあるが、このエピソードも文脈の重要性を強調している。多くの人は、愛する人と綺麗な月を眺めるという行為を望ましいものであるとみなすであろう。少なくとも、夏目漱石はそう考えていたということがこのエピソードからはうかがえる。また、このエピソードが現代まで語り継がれていることからも、夏目漱石の考えは多くの人に受け入れられていると指摘することができる。もちろん、夏目漱石の考えがあまりにも頓珍漢であったからこのエピソードが語り継がれていると解釈することも他方で可能である。エヴァンズも、完全に客観的な歴史は存在しないことを認めながらも、歴史家の努力によって可能な限り客観的な歴史を書くことは可能であるし、それが歴史家の使命であると主張している。歴史学は経験的な学問であり、知識の本質よりもむしろ内容の方が問題になる。利用できる史料があり、それを扱う方法が確立していて、しかも、歴史家が注意深く入念であれば、過去の現実を再構築することは可能である。それは部分的・暫定的なものであり、確かに客観的とはいえないかもしれない。それでもなお、それは真実である。(中略)私は慎ましく過去を見つめ、そして彼らすべてにこう反論したい。過去の出来事は現実に起こったのである。したがって、歴史家が十分慎重で、注意深くあり、自己批判に徹するならば、その出来事がどのようにして起こったのかを見つけだし、たとえ過去を解明しつくした最終結論に達することはできなくとも、批判に耐えうる結論にいたることはできるのだ、と8。エヴァンズが主張しているように、歴史家の努力次第でより客観的な歴史を書くことは可能である。したがって、ポストモダニストによる挑戦は歴史家に自身29

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