View & Vision No55
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14プロフィール千葉商科大学商経学部教授。著書に『「働く喜び」の喪失―ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す』(現代書館、2020年)、『呪術意識と現代社会―東京都二十三区民調査の社会学的分析』(青弓社、2010年、共著)など。1 Max Weber Gesamt Ausgabe I/7, J.C.B.Mohr, S.173=富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫(1998)72頁。(以下、ヴェーバー全集版はMWGと略す。)2 MWG I/17, S.97=野﨑敏郎訳『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』晃洋書房(2016)209頁。3 MWG I/7, S.169=前掲『客観性』66頁。直接には唯物史観への批判だが、それ以外にも当てはまる内容である。4 MWG I/7, S.169=前掲『客観性』66-67頁。5 MWG I/19, S.101.=大塚久雄・生松敬三訳「世界宗教の経済倫理 序論」『宗教社会学論選』みすず書房(1972)58頁。千葉商科大学商経学部 教授荒川 敏彦ARAKAWA Toshihiko本稿では、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の歴史分析について考えてみたい。はじめにヴェーバーによる、実証主義への批判、対象についての知見と価値評価とを混同することへの批判、そして一元論的傾向への批判の三点を確認しておこう。社会科学の概念は、無限にある要素が複雑に入り組んだ現実を一面的に構成したものであり、経験的現実をそっくり写し取ったものではない。たとえば「マルクス」を語るうえで身長は問題にされないが、身長のないマルクスは実在しない。ヴェーバーが提起した「理念型」は、現実のごく一部のみを特定の「観点」(Gesichtspunkt1)――それも恣意的独善的な単なる観点でなく文化意義と深く関わる観点――から、一面的に(einseitig)構成された思想像(Gedankengebilde)なのである。理念型としての概念がある特定の観点にもとづいて構成されたものである以上、その概念を用いて得られた知見を経験的現実そのものとみなすことはできない。ヴェーバーは晩年の『職業としての学問』で、「事実をして語らしめる」ことが最も不誠実な方法であると批判している2。そのような方法では、経験的事実があたかも「無垢の事実」であるかのごとく提示され、それが特定の価値と関係していることを隠蔽してしまうからである。このように社会科学が特定の「観点」から一面的に対象を取り扱うものである以上、その分析も一面的なものであらざるを得ない。しかし往々にして、特定の側面からの分析が、なにか「全体」を解明したかのごとくみなされる。ヴェーバーによる次の批判は、現代でも通じるに違いない。「ある歴史的現象の説明にあたり、経済的原因が、なんらかの形で、どこかで作用している、と立証されないかぎり(あるいは立証されたように見えないかぎり)、かれらの因果欲求はみたされない。ところが、この説明さえつけば、こんどは、使い古された仮説やきわめて平板な言い回しで満足してしまう3」。ヴェーバーは経済的説明の他にも「人種」や「民族性」などに根本原因を求めたがる傾向をあげて当時広がっていた一元論的傾向(monisitische Zug)を批判し4、学問の個々の業績があくまで一面的なものであることを強調する。それゆえに学問的成果は、いつか乗り越えられるべき宿命を負っているのである。このようなヴェーバーの問題意識は、歴史に対する次の見方にも具現化されている。  直接に人間の行為を支配するのは、利害関心(物質的また観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によって創り出された「世界像」が、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、その内部で、利害関心のダイナミクスが行為を推し進めてきたのである5。時を刻むことをめぐる〈理念〉と〈利害〉のダイナミクス実証主義批判・価値自由・一元論批判マックス・ヴェーバーの生活態度論における時間分割

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