教員コラム

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国際

オリンピックは夏と冬の大会が交互にそれぞれ4年ごとに開催される。2014年の今年はロシアのソチで第22回冬季大会が開催された。黒海沿岸のソチは夏の保養地として知られていたが、競技施設が全くない状態から7年で冬季オリンピック開催地に変容させた。会場は沿岸エリアと山岳エリアに分かれ、どちらにも大きな施設が造られた。この競技施設を使い、世界各地から集うスポーツマンにより7競技98種目が競われた。大会規模が回を追うごとに拡大しており、42年前の札幌大会では6競技35種目、16年前の長野大会では7競技68種目であった。

華やかに演出された開会式は開催国の歴史・文化などを国の威信をかけて、世界に発信する場でもある。この開会式に欧米各国の首脳たちが欠席する中、日本の安倍首相が参加した。オリンピックは政治的に中立な立場をとっているが、巨大なスポーツイベントであるために政治的に利用されることが多い。またテロリストに狙われる心配もあり、綿密な安全対策が講じられ、厳重な警戒態勢が敷かれた中での競技となった。

100年を超えて続いているオリンピック活動は、フランスの貴族出身のクーベルタン男爵によって創設された。彼が10歳のときフランスは隣国のプロシアに敗れ、領土割譲、巨額賠償金で帝政が崩壊した。自国の国際的地位の低下を目の当たりにしたクーベルタンは、産業革命で工業化が進み世界経済の中心として栄華を誇っていた英国の教育に強い関心を抱いていた。それは英国パブリックスクールでの生活を描いたトーマス・ヒューズの「トム・ブラウンの学校生活」に触発されたためであり、青少年の教育にはスポーツが重要であるとの思いが高まり、英国に留学した。英国の教育制度を学ぶ中で、彼はラグビー校の校長であったトーマス・アーノルドが提唱していたスポーツを取り入れた教育理念、スポーツが社会性の育成や身体と知性と精神のバランスのとれた発達に重要な役割を果たすというものが、英国の青少年を鍛えていたと確信した。また当時、古代ギリシア・オリンピアの発掘がおこなわれていたため、古代オリンピックの存在と伝統が注目を集めており、ヨーロッパ各地で競技会に「オリンピック」の名を冠するのが流行ったそうだ。

オリンピック研究の第一人者であるレディング大学のマイケル・ビディス教授は「クーベルタンの偉大さは五輪復興を思いついたことではない。むしろ理想の実現に向けて大胆に突き進む意志の力を持っていたことであり、若者の教育と古代ギリシアの五輪停戦にヒントを得た世界平和の促進のために、国際的な大会を継続開催することを夢見た。すごいのは彼が自分を駆り立てる行動力と財をつぎ込む熱意を持ち続けたことだ」と語る。

第1回のオリンピックはギリシアのアテネで開催された。参加者は245人、14カ国から集まった。選手の参加資格はジェントルマンでなければならないとし、職務で給与を受ける者はジェントルマンではないとしていた。1980年代初めまでスポーツにおけるアマチュアとはスポーツを職業としておらず、かつ報酬を受け取っていない選手を指すとしていた。オリンピックにはアマチュアのスポーツマンでなければ参加することができなかった。しかし、オリンピック参加資格のアマチュア規定は各国のオリンピック委員会にゆだねられていたので、ステートアマチュア、企業アマチュアなど問題の多い参加資格であった。振り返ると、アマチュア資格に抵触したとして1913年に2個の金メダル(陸上競技五種競技・十種競技)を剥奪されたジム・ソープ選手や1972年の札幌冬季大会でのカール・シュランツ選手の出場停止などの大きな問題が発生した。ミスターアマチュアと称された第5代IOC会長ブランデージ氏が退任した後に、プロ容認の姿勢が打ち出され、最高の競技レベルの大会に変容していった。

現在は「スポーツを行うことは人権の一つである。各個人はスポーツを行う機会を与えられなければならない。そのような機会は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が必須であるオリンピック精神に則り、そしていかなる種類の差別もなく、与えられるべきである。スポーツの組織、管理、運営は独立したスポーツ団体によって監督されなければなられない。」(オリンピズムの根本原則4)としており、スポーツ フォー オールが保証されている。

日本がオリンピックに初めて参加した大会は前出のジム・ソープ選手が活躍した1912年のストックホルム大会であった。28の国及び地域数から2437人が集い、15競技102個の金メダルを目指して競技した。日本からの参加選手は陸上短距離の三島弥彦と陸上長距離の金栗四三の2人であり、マラソンに出場した金栗の公式記録は「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3」である。団長は嘉納治五郎でありアジア初のIOC委員として参加している。そして唯一この時だけ、入場行進のプラカードには「NIPPON」と表記された。その後、日本は1940年に東京で夏季大会を、札幌で冬季大会を開催することになったのだが、戦争のため開催を返上した。

夏季大会における日本人初のメダリストは1920年アントワープ大会でのテニスの熊谷一彌であり、女子は1928年アムステルダム大会での陸上競技800m人見絹枝だ。これまでの夏季大会において獲得した金メダルは130個であり、獲得メダルの総数は400個になる。冬季大会には第2回のサンモモリッツから参加しており、初のメダリストは1956年コルティナダンペッツォでの猪谷千春であり、銀メダルを獲得。1972年札幌大会でのスキー70mジャンプでの笠谷幸生たちの金・銀・銅メダル独占、1998年の長野大会では5個の金メダルを獲得した。バンクーバー大会までに獲得したメダルは金9個、銀13個、銅15個の合計37個。今回のソチでは8個のメダルを獲得した。続くパラリンピックでの日本人選手の活躍も楽である。

さて、2013年9月7日ブエノスアイレスでの第125次IOC総会においてジャック・ロゲ会長が「Tokyo2020」と書かれた紙を読み上げ、「トキョウ」の声が響いた。と同時に、日本の東京にオリンピック招致委員会関係者の歓声があがり、テレビの画面に映し出されるプレゼンターの顔。皆、笑顔、涙流して歓喜の雄叫びをあげている人、人、人。前回のオリンピック招致レースにおいて、ブラジルのリオに敗れているだけに東京で再度開催できる喜びを体全体で表現していた。

2020年の東京オリンピックは50年前の前回大会を大きく上回る規模の大会になるでしょうし、世界各地から多くの選手そして観光客がやってくる。彼らは日本の伝統文化が息づく街や若者文化を発祥している街のある大都会の中で開かれるコンパクトでエコロジカルな大会を、公共交通機関の利便性を、高度なテクノロジーに支えられた大会運営に驚くころだろう。それ以上に日本人特有のホスピタリティ、街中の清潔さを表した「お・も・て・な・し」を感じることだろう。

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