教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

地域・暮らし

人形浄瑠璃文楽の太夫、竹本住大夫さんが、今年5月の東京公演を最後に現役を引退した。89歳である。人形遣いの吉田玉男さんは2006年に現役のまま87歳で逝去したが、住太夫さんは2012年に脳梗塞で倒れて以来、それまでのような語りができないと引退を決意したという。同じ舞台芸術でも、ヨーロッパのオペラハウスのバレエ団のソリストは40歳代で定年を迎える。年とともに表現力に磨きがかかっても体力面でついてこなくなるからである。世間一般には定年は60歳代であり、現役が40歳代までという世界も90歳近くまでいけるという世界も、どちらも極めて特殊な例であるには違いないが、同じ舞台芸術でありながらこれほど開きがあるというのには改めて驚かされる。チェコの巨匠振付家、イリ・キリアンが、日本の人間国宝の制度に注目して、世界で初めて入団資格が40歳以上という舞踊団を創設したことはよく知られるが、「齢を重ねることで滲み出てくる表現」に力点を置く日本の舞台芸能は、西洋の視点から大いに見るべき点があるのだろう。

私はひょんなことから住大夫さんと話をしたことがある。まだ学生だった頃、初めて人形浄瑠璃を見に行ったときのこと。とにかく一度見てみたいと思い、予備知識は零、演目も出演者も確認せず国立劇場に向かい当日券を買って入場した。ドラマの内容はほとんど何も理解しなかったが、「面白かった。人生の大切な出会いをした」という思いで劇場を出た。と、目の前を公演に出演していた太夫さんが一人、帰路を急いでいる。思わず駆け寄り「今、出演していた方ですよね。きょう文楽を生まれて初めて見ました。とても面白かったです」と声を掛けた。「そうですか」と太夫さん、小道をいっしょに歩きながら、文楽の要は浄瑠璃であるということを、とくとくと力説された。そのときは、この方が人間国宝の住大夫さんだとは知らなかった。

その後、文楽のビデオなどを積極的に見るうちに、人形の動きに強く心惹かれるようになった。「人形遣いは、ただ者ではない!」人間が日常無意識に行なっている動作の手順を事細かに知り尽くし、やすやすと再現するだけでなく、わずかに肩を振るわせたり、首を傾げたりするだけで、人の細やかな感情を生命のない人形にありありと体現させてしまう。ベルギーのある振付家と舞踊の表現の話をしているとき、彼は文楽を話題にし「文楽の人形は世界最高の舞踊家だ」と語った。日本に来たこともないのに文楽を知っているのだという驚きとともに、私は大いに彼に賛同した。舞踊の専門家なら、文楽の人形の動きを一目見てハッとしたとしても不思議はない。舞踊の基本はまず身体を無にするつまり人形になること。そして、このなかなか言うことをきかない「身体という人形」とその遣い手としてのもう一人の自分が格闘するのが、舞踊の訓練。完璧な人形とこれを自在に操る人形遣いの二人が自分のうちに完成したとき、一人前の舞踊家が誕生する。舞踊家であれ役者であれ、舞台の上では「役柄を操る個人」と「役柄」の二重の人格を生きるが、人形浄瑠璃はおそらく、観客にこの二人の存在を別々に見せてくれる世界で唯一の演劇形式であろう。そして、役柄を操るほうの者は、役に没入して感性で演じるのではなく、客観的で緻密な計算をしながら操るのだという18世紀のディドロの演技理論を、文楽はまさに観客の眼前で実践する(最近の工学部での表現分野の研究の流行を鑑みてついでに言えば、工学者にはぜひ文楽を研究してもらいたいものである。研究対象は人形=モノであり、アニメーションと同じく研究しやすいはずだ。文化財を通して伝承されてきた人の知恵と技能が工学的な知的な財産へと転換され、さらにお金に換算されることで、これが国の重要な「資源」であることにより多くの人が気づくかもしれない)。

語りすなわち浄瑠璃の方は、言葉の意味がわからないと日本人でもなかなか馴染めないかもしれない。私はこの語りの面白さを、現在静岡県舞台芸術センターの芸術監督を務める宮城聰さんの演劇作品から学んだ。宮城さんは1990年に旗揚げした劇団「クナウカ」とともに、動き手と語り手の二人で一役を演じるという演劇の手法を開発してきた。動き手は演技をし、語り手は舞台後方に座り、声のみで演じる。二人一役の演劇など不自然だと思うかもしれないが、そんなことはない。動き手の身体に縛られない声は、「口から出された言葉」のみならず、頭の中で話された言葉、心の中で叫んだ言葉などの明確な区別なしに、空間を自由に飛び交う。人は普段、自分の内に響く言葉のうちのどれだけを声にしているのであろうか、と改めて考えさせられる。確かに、日常でも他者の内言を聞くことはある。しかし、もし他者の内言のすべてが聞こえたとしたらどうなるのであろう・・・。クナウカの演劇では、日常の言葉の表層に見え隠れする現実の奥行きに、観客を連れ込んでゆく。そして、宮城さんがこの手法の着想を得たのは、やはり二人一役の演劇、人形浄瑠璃だったという。台詞劇には「独白」という手法がある。これは日常決して「口から出されない言葉」を観客に聞かせるための手法であり——台詞劇では、これは他の役柄には聞こえていないことになっている——これ自体極めて不自然なものである。しかし、演劇は虚構であり自然である必要はない。現実に近いかどうかが問題なのではなく、虚構であるにもかかわらず人を引き込むことができるかどうかが問題なのだ。だから、台詞劇には独白があってよいし、クナウカ演劇が二人一役でもよく、文楽で人形を動かす人間が見えていても邪魔にならない。
いや、二人一役も、顔の見える人形遣いも、普通の人がやればきっと不自然であろうが、虚構世界に観客を誘い込むための高度な技をもつ人たちが演じるから違和感を生まないのである。技のすごさに感動するとき、人はそこに時間の重みを感じている。一人の人間が毎日コツコツと修練を積み研究を重ねてきた時間、そして文楽が人から人へと伝えられることで繋がれてきた時間。そこには、モノに依存しない「もう一つの生命」が流れている。
そして、文楽の生命が繋がれていくために一人の個人が担うべき時間は人間の一生分、日本の文楽とは一人の人の「終わりなき修行」の連鎖である。

さて、住大夫さんの引退に並んで、いま「人形浄瑠璃」に関して話題を呼んでいるのが、文楽協会への助成金削減問題である。橋下氏市長就任後の2012年、大阪市からの文楽協会への補助金が5200万円から3900万円に減額、今年度はさらに約700万円減ることになったという。この問題はこれまでメディアやネット上で活発な議論を呼んできた。その焦点は、「文楽が府市(つまり税金)から受け取る補助金の妥当性は何か」を問題にし、これを「観客数」に求めるべきだとする橋下市長と、国の重要文化財に指定され、ユネスコの無形文化遺産に登録されている文楽の重要性を認識すべきだとする人たちの声の対立に絞られる。また、2014年2月7日の読売新聞が、発端は2009年8月にさかのぼる…橋下氏が知事時代に初めて文楽を観賞し「2度目は行かない」と発言したことから一連の出来事は始まった、と報道しているように、この発言以降(それ以前の言葉を取り上げる記事も見られる)の文楽に対する市長としての橋下氏の諸々の発言——「人形劇なのに人間の顔が見えるのが腑に落ちない」など——も、助成金問題と並行して取り沙汰にされている。
市長としての発言としてどうかいう点を措けば、初めて文楽を見て「これは面白い」と思う人と「2度目は行かない」と思う人がいるのは当然であるし、「見ているうちに人形遣いは消えてしまった」と言う人と、「顔が見えるのが腑に落ちない」という人がいて何ら不思議はない。一連の論争を達観するならば、そうした価値観の相違に伴う利害関係のるつぼの中で予算の配分を決めるときの思考の軸と、ある特定のものの価値の重要性を認識するための思考の軸は直交している、つまり完全に次元が異なっていることが、改めて浮き彫りになる。個人や集団が全霊をこめて育んできた「もう一つの生命」は無神経に扱われれば反発は免れないが、一方、これをある程度割り切って扱えないようでは、予算配分などという仕事は到底できそうもない。
議論は噛み合う性質のものではないから、議論しても仕方ないというのではない。私たちは、このような議論と仮の終結(「解決」ではない)を繰り返しながら、悩み、憤り、苦しみ、諦め、進んできたのであり、これからも進んで行かなければならない。もし、人が特定の価値観に拘りをもたなくなれば、あるいは人々の価値観が均質であれば、理論的にはこの種の対立はなくなる。だが、そんな社会は想像するだけで気味が悪い。これとは正反対に、若者は自分の時間を注ぎ込むことができる自らの価値観を捕らえ、拘りの軸を形成していきたい。これこそが学生時代の最重要課題であると私は考えている。どんなことでもよい。「もう一つの生命」として自ら大切に育むことができるもの。これをもたずには、他者の価値観に敬意を払うこともできず、行き着くところは自分の地位とか世間体とかいう軸しかもてない大人になる。こういう人たちの議論は想像力に欠け乾いている。そして何より、社会という気紛れに翻弄されることなく、自らの「もう一つの生命」を自らの責任で繋いでゆこうとする逞しさと柔らかさを個人がもたずには、社会自体が成り立たないのだから。

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