教員コラム

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国際

東アジアの文化と伝統を知れば、日本がよく見える

文化圏とは、一般に宗教・風俗・習慣などに類似した特徴をもつ地域のことを指すことばであるが、東アジアに位置する日本列島・中国大陸・朝鮮半島の文化と伝統は、相互の交流のなかで歴史的に形成されてきたため、この地域はしばしば東アジア文化圏・漢字文化圏・儒教文化圏などと表現されている。
ここでは、幾つかのことばを事例として取り上げ、具体的に東アジア地域における文化の交流と摂取の歴史を見てみることにしたい。

国際化が進んでいる今日においては、「留学生」という言葉を知らない人はいない。だが、なぜ外国に行き学習する人が「留」学生と呼ばれているのか? 如何なる意味で、いつからこの表現が使用されるようになったのか? 実は、「留学生」ということばは東アジア文化圏の中で歴史的に形成された表現であり、聖徳太子の時代に中国へ派遣された「遣隋使」、それに続く「遣唐使」の時期に使われた概念であり、いわゆる和製漢語であった。
周知の如く、古代の日本において、農業・文字・仏教などは概ね中国大陸・朝鮮半島からの渡来人によって伝えられた。聖徳太子の時代になると、当時の東アジアにおいて先進国であった隋(中国)に向けて使節を派遣すると同時に、学者・学問僧も同行させ、直接隋の仏教・政治・文化などの知識を学ばせ、それらを日本に持ち帰らせた。その際、学者・学問僧の中には、短期間中国滞在した後、使節が帰国する時に一緒に日本に戻ってくる者と、使節が帰国する際に同行せず、二十年以上中国に留まる者とがおり、短期間で日本に戻る者を「還学生(げんがくしょう)」と言い、長期間で中国に留まる者を「留学生(るがくしょう)」と称するようになった。それから、「留学生」ということばが用いられるようになり、現代では、外国に居住して学習する学生をすべて「留学生」と称するに至っている。
遣隋使・遣唐使及び中国に渡った還学生・留学生たちは帰国すると、大いに活躍した。彼らは隋唐の政治・経済制度などの知識を持ち帰り、それを参照して日本国内の制度を整備し、日本の律令国家への発展に寄与した。645年の大化の改新及び701年の大宝律令がとりわけ有名である。

文化の交流は一方通行ではない。ことばに関しても同様であり、東アジア地域に於いては、互いに長期的に言語と文化が交流し続けてきた。江戸後期から明治初期にかけて、急激に西洋化が進むなか、日本の学者によって西洋の思想・学術を翻訳する際に作られた漢字の語彙が、数多く近現代の中国語、韓国・朝鮮語に入っていった。例えば、「哲学」は日本の啓蒙家である西周がphilosophyという西洋語の概念を漢字によって翻訳し、作ったことばである。また、もともと中国語のなかで古来の意味をもって使われていた言葉、例えば、「経済」(元来の意味は、世を治め、民を救済すること)、「革命」(古代中国において王統を変えること)のような漢字語は、明治維新の時期に、日本の学者によってeconomy、revolutionといった西洋的な意味が付与され、新たに定義し直された。これらの漢字語は東アジア地域で広く使用されるようになった。

国際化がますます重要な課題となってきている今日、その一環として様々な形態の留学プログラムが各大学で用意され、数多くの学生が積極的に海外に行き留学している。一方、独立行政法人日本学生支援機構の調査によると、平成25年度海外から日本に来た留学生総数も13.6万人に達している。そのなか、出身国(地域)別留学生数上位2位は、中国の8.1万人と韓国の1.5万人であり、合わせて留学生総人数の7割以上を占めている。これはグローバリゼーションが東アジア地域(特に日中韓の各国)にもたらしている影響の現れであり、今日の東アジア地域においても、なお緊密な文化交流が行われている現状を反映するものと言えよう。
かような東アジアの緊密な関係のもとで、日常的な経済・文化の面での交流がますます期待されるなか、東アジア各地域の文化的な共通性・多様性を知り、日本の文化と伝統の歩みを東アジア文化交流の中で考えることは、多文化共生の時代にふさわしい自他の文化に対する認識と理解を深めることに繋がるであろう。

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