教員コラム

政治・経済・IT・国際・環境などさまざまなジャンルの中から、社会の話題や関心の高いトピックについて教員たちがわかりやすく解説します。

国際

EU離脱の賛否を問うイギリスの国民投票とフランスの大統領選挙では、両国の移民問題が争点となりましたが、イギリスとフランスに限らず、ヨーロッパ全土には移民の増加によって国民の仕事が奪われる不安や治安悪化の懸念が広がっています。ヨーロッパに移民が急増したのは、「アラブの春」と呼ばれる中東諸国で起きた民主化運動が大きく関わっています。その発端となったチュニジアの出来事から、ヨーロッパが抱える移民問題の背景を探ります。

ある青年の焼身自殺

チュニジア

2010年12月17日、北アフリカのチュニジアで一人の青年が焼身自殺を図った。青年の名はモハメド・ブアジジ、チュニジアの地方都市にどこにでもいる失業中の青年であった。ブアジジはチュニジア内陸部の都市シディ・ブージドで1984年に生まれている。父はブアジジが3歳のときに亡くなり、彼は10歳のときから家計を支えるため働きにでていた。2010年に26歳になったブアジジは、母親や大学に入学した妹を含む6人の姉妹兄弟のために露天商の仕事をしていたのである。

露天商の仕事とは、道行く人々に大通りで野菜を売る、いわゆる闇商売(インフォーマル)であった。ブアジジは、何度も役所に商売の許可を求めていたが、認可を得ることができず、やむを得ず無認可で路上販売をしていたことになる。闇商売といっても、チュニジアをはじめとする開発途上国では、このような人々は多く存在しており、日常的な風景である。

しかし、この日、いつものように露天商の仕事をしていたブアジジは政府の女性職員に咎められた。商売道具の秤や野菜は没収され、賄賂を求められたが、お金のなかった彼は払うことができなかった。そのような彼に向かって、職員は、彼の父を侮辱し、平手打ちを食らわせたのである。このようなチュニジア政府と職員の横暴に対する抗議を表明するために、役所前の通りで、ブアジジは焼身自殺を図ったのである。18日後、ブアジジは搬送された病院で死亡した。

「ジャスミン革命」

このブアジジが焼身自殺をおこなった現場の画像は、インターネットを通じて、瞬く間にチュニジア全土に広がることになる。2010年12月27日になると各地でデモが拡大し、首都チュニスでも大規模なデモが発生した。そして翌11年1月14日、内務省前で大統領退陣を求める5000人規模のデモがおこなわれ、ついにベン・アリ大統領が国外脱出を図る。ここに1987年から続いた23年間にわたり続いてきたチュニジアの独裁政権が終わりを告げた。民衆が長年にわたる独裁政権に立ち向かい、ついには打倒した民主化運動として、後に「ジャスミン革命」と呼ばれるようになった。一人の青年の絶望的な悲しみが、チュニジアで長年にわたり抑圧を受け続けてきたチュニジアの民衆の心に燃えさかる炎をともすことになったのである。

そして、チュニジアで端を発する民主化を求める運動の影響は、瞬く間にエジプトやリビア、その他のアラブ諸国へ飛び火していったのである。これが後に北アフリカ・中東で生じた「アラブの春」と呼ばれる一連の政治変動であった。

大衆に蔓延した苛立ち

北アフリカの小国であるチュニジアで起きた「アラブの春」は、どのように捉えることができるのか?

拙訳『文明の交差路としての地中海世界』(白水社文庫クセジュ, 2016年刊)の著者ベンヒーダによれば、「アラブの春」は、「単に若者の抵抗運動として片付けることはできない。まして、体制への憤懣を、暴力を含めたあらゆる手段を通じて、長い間おこなってきたイスラム原理主義グループの行動とも違っていた。それは、「大衆に蔓延した苛立ち」の帰結であった」(71ページ)と指摘している。そして、チュニジアを震源とした「苛立ち」は、「地域的叛乱のグローバル化」として瞬く間にアラブ世界に広がっていった。

それでは、チュニジアで大衆に蔓延していた苛立ちとは何であったのか?

「アラブの春」が起こる前、2000年代初頭から中頃にかけてチュニジアに何度か足を運んだことがある。その頃のチュニスの街は、活気あふれるチュニジアの青年たちであふれており、目抜き通りブルギバ通りを歩けば、すぐに人懐っこい性格の彼らが寄って来て、談笑することができた。アラブ世界のなかでも、とくにチュニジア人は、「自由」や「民主化」、「政党政治」には関心がないという「アラブの例外」を体現している国民だと誰もが疑わなかった。しかしながら、そのときからすでにチュニジアに住む若者の瞳の奥底には、一見するとチュニスの華やかな雰囲気からは想像もできない独裁政権による失望と「国に対する失望」が渦巻いていたのかもしれない。街のいたるところでは、満面の笑みを浮かべるベン・アリ大統領の肖像画が掲げられ、カフェやタクシーでの何気ない会話も、いつ秘密警察が聞きつけるかもしれないという恐怖と不安で、人びとは押しつぶされそうになっていたのである。

絶望的な未来

一見平穏に見えたチュニスの人々の心の奥底には、政府への絶望的な想いが年を追うごとに強まっていたのかもしれない。2009年のチュニジア経済は、金融危機に伴うヨーロッパ実体経済の悪化により経済成長は鈍化し、失業率は13.3%にまで上昇していた。特にブアジジのような若年層の失業率は極めて高く、20~30%にも達していたと言われている。失業率が30%というと、これまで暴動が起こらなかったのが不思議なくらいの極めて高い数値である。

定職につくことのできない若者たちの生活は苦しく、かといって、現状の不満を吐露する場所もない。ベン・アリ大統領は2009年の大統領選挙で5期目の任期(5年間)となる大統領選挙で89%以上の票を獲得して当選した。チュニジアの憲法では大統領の任期は4回までと制限されていたが、2002年に制限条項が撤廃、立候補可能な年齢制限が75歳までとされ、当時73歳であったベン・アリ大統領が再選したのである。これまで行なわれた4回の大統領選挙も常に90%以上の支持を得てきた。何度選挙を実施しても民意が反映されないチュニジアの政治体制に人々は絶望していた。

硬直化した政治体制と国内経済に暗雲が立ち込めるなかで、チュニジアの観光業だけは活況を呈していた。地中海に面したチュニジアの沿海部はヨーロッパ人にとって、有数のリゾート地のひとつであった。チュニジアへの観光客数は年間700万人を記録し、政府収入は18億ユーロに達していた。巨大なマンモスリゾートホテルが林立するジェルバの観光施設では、チュニジア人の宿泊を禁止して外国人観光客を優遇する差別的措置をとっているところもあった。息詰まる生活を強いられてきた北アフリカの若者にとって、ヨーロッパから訪れる観光客の姿はどのように写ったのだろうか?高級リゾートホテルで配膳サービスの仕事に就くチュニジア人の若者にとって、照りつける強烈な太陽に照らされる穏やかな地中海は、決死の覚悟をもたなければ越えることのできない「紺碧の壁」として立ちはだかっている。

「アラブの春」以降、北アフリカおよび中東地域での政治経済的混乱のなかで、地中海を縦断して欧州大陸へ渡る不法移民が急増するとともに、シリアやイラクからギリシャに渡る難民の数も急増していった。イタリアのランペドゥーザ島へわたったチュニジア人は2011年に2万1000人と指摘しているが、2015年の難民・不法移民者数は地中海全体で53万人(うちイタリア13万人、ギリシャ40万人)に急増しており、地中海全体の溺死者数は3500人以上とも言われている(UNHCRの発表)。ヨーロッパという「黄金郷(エルドラド)」にたどり着くことを夢見た多くの人々が、深い絶望のなかで次々と暗く冷たい地中海のなかに沈んでいるのである。

この地中海の縦断を試みる不法移民の問題は、今にはじまったことではない。著者ベンヒーダとスラウィはモロッコ人であるが、モロッコ北端に位置するタンジールは、欧州大陸への代表的な密入国経路で知られており、サハラ以南アフリカ出身の者も含めて毎年10万人以上がジブラルタル海峡越えやモロッコ北部にあるスペイン領飛び地のセウタやメリーリャへ密入国を試みてきた地でもある。まさに本書で指摘されているように、「地中海両岸を切り裂いている亀裂は計り知れないほどに深く、その奥底では、豊かな北側諸国への羨望と嫉妬が渦巻いている」(18ページ)のである。

分断が広がる世界

「アラブの春」からすでに6年以上の月日が経過した。しかし、現在にいたっても、地中海世界の南北両岸に広がるヨーロッパ世界と中東・アフリカ世界の間で深く刻まれてきた「分断」は、解消されていない。むしろ、その隔たりは、さらに広がり、深まってしまっている。

チュニジアと同じく、独裁政権体制を築いていたリビアでは、カダフィ政権崩壊後に大量の銃火器が流出し、サヘル地域は複数のイスラム主義勢力の「聖域」と化し、分断と対立の地が広がっている。アラブ世界の混乱の影響は、北側世界にも伝播している。将来の展望が見えない絶望の淵にたたされたヨーロッパに住むアラブの若者たちは、イスラム過激派が生み出す共同幻想のなかに「生きる意味」をみいだし、凄惨なテロを繰り返している。

将来の地中海世界が、他者に対する恐れを増幅させる触媒となることを回避し、繁栄を分かち合う理想的な共有地域となるためには、対立から和解、分断ではなく収斂、恐れではなく信頼に基づいた多様性を育みながらも、ひとつのまとまった地域共同体に向けた着実な歩みを進めることが必要である。


引用箇所は、ブーシュラ・ラムゥニ・ベンヒーダ/ヨゥン・スラウィ著、吉田敦訳『文明の交差路としての地中海世界』(白水社文庫クセジュ, 2016)を参照。

解説者紹介

准教授 吉田 敦