アジアの歴史

ー人物が綴った東アジア近現代史ー

「簡略年表」(1662〜1928年)(1929〜1949年

第1回 道光帝・林則徐:アヘン戦争と中国の「開国」
 オリエンテーション:
 「アジアの歴史」の講義の内容
 評価方法と履修上の注意

 ・近代までの中国:皇帝を頂点とした中央集権社会と自然経済:皇帝を頂点とした中央集権社会:無上の権力を握る皇帝と官僚集団の効率的支配
 ・「市場経済」vs.「自然経済」
 ・「男耕女織」「自給自足」
 ・アジア指導者たちの消極的な対外政策:江戸幕府の「鎖国令」
 ・明・清王朝の「禁海令」
 ・主な理由:キリスト教を代表とする西洋文化への警戒心
 ・イギリス商人と中国市場(中国市場へのあこがれ:睡帽とピアノの伝説、初めての挫折:自然経済の厚い壁)
 ・通常貿易と銀の流れ
 ・阿片という特殊商品(英ー印度ー中国の三角貿易)
 ・「弛禁論」と「厳禁論」、道光帝の禁煙への傾斜
 ・鴉片戦争の経過と結果(中国側の連敗。海防を固めた広州と無防備な天津
             道光皇帝の動揺と妥協派の台頭。「南京条約」の締結)

 第1回授業資料(簡易版)

第2回 木戸孝允・岩倉具視・明治天皇:明治維新とアジア近代化の発端

 ・中華帝国の危機と日本への衝撃
 ・中国で冷遇されたが日本で大好評だった『海国図志』
 ・ペリーの来航と日本の「開国」
 ・「明治維新」とは
 ・改革の方針
 ・改革の内容(その一)
 ・改革の内容(その二)
 ・明治政府の外交政策
 ・明治維新の光と影

 第2回授業資料(簡易版)


第3回 洪秀全・康有為・西太后:西力東漸と清末の動揺


・近代中国の主な出来事(アヘン戦争以降)
  洪秀全太平天国農民蜂起(1851-64年)
  アロー戦争(「第2次アヘン戦争」、1856-60年)
  洋務運動、同治中興(1862-74年)
  清仏戦争(1884-85年)
  日清戦争(1894-95年)
  戊戌維新(「百日維新」,1898年)
  義和団事件(1900ー01年)
  辛亥革命(1911年),清王朝の終焉(1912年)
・アヘン戦争の失敗原因
  軍事力の敗北
  制度の敗北
  国民の敗北
・「南京条約」と中国社会変動の開始
  五港通商
  戦争賠償金
  香港の割譲
  中国社会変動の開始
・中国歴史上の農民蜂起
  農民たちの辛抱強さ
  農民蜂起の多発
  「替天行道」
  「殺富済貧」
・洪秀全と太平天国
  拝上帝会:
  『資政新篇』:
・中国社会における西洋文化への受容
  受容の流れ:
  その反発:
・康有為の登場と戊戌維新
・保守派官僚の強さ

 第3回授業資料(簡易版)

第4回 李鴻章・伊藤博文: 日中の近代化運動と日清戦争

・中国の近代化運動:洋務運動
  第1段階:「強を求める」
  第2段階:「富を求める」
・清朝:北洋艦隊の完成
  「鎮遠艦」と「定遠艦」
・西太后の誕生日行事と海軍軍費の流用
  頤和園
  海軍予算の流用
・日本の明治維新と近代化の歩み
  1855、洋学所(外国語の学校)
  1862、オランダ留学(外国留学)
  1868、五箇条の御誓文(近代化宣言)
  1871、新貨幣制度
  1872、東京・横浜間汽車開通(近代交通)
  1877、東京大学開校(近代教育)
  1889、大日本帝国憲法(憲法発布)
・日中近代化の共通点と相違点
  「中体西用」と「和魂洋才」
  「洋務運動」
  明治維新
・日中の対決
  朝鮮半島での陸戦
  黄海海戦
・「下関条約」と台湾割譲
・日清戦争の結果
  日本:
  中国: 

 第4回授業資料(簡易版)

 第5回 孫文・宮崎滔天・梅屋庄吉:辛亥革命と日本

・孫文:「国父」、「革命の先駆者」
 孫文(1866―1925)号は逸仙、中山。広東省香山県貧しい農家の次男として生まれ。1897年(明治30)アメリカを経て来日し、宮崎寅蔵らと交わり、1905年東京で中国同盟会を結成し、三民主義や革命方略を定めた。11年10月にアメリカにいて辛亥革命の勃発を知り、西欧を巡り帰国。臨時大総統に推されて、12年1月1日中華民国を発足。24年1月、中国国民党を改組して、中国共産党と提携し、労働者、農民の結集を図って、国民革命を推進することとした。11月、北上宣言を発して北上の途に、日本に立ち寄って「大アジア主義」と題された講演を行い、25年3月12日「革命いまだならず」と遺嘱して北京に客死。

・「孫大砲」:アジアの連帯、アジア共同体建設の理想
 「私の友人の中に、貴国の方が最も多いので、中国の革命事業に対して、日本人のほうはほかの国の人より関心を持っているのであり、われわれを喜ばせる処ももっと深いものである。将来の唇歯輔車の間柄は、これに基づくものであろうと信じている。」

・日本は第二のふるさと、革命運動の大本営

・孫文をめぐる日本人:宮崎滔天
 「孫逸仙の如きは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその識見の卓抜なる、彼、何ぞその抱負の遠大なる、しかして彼、何ぞその情念の切実なる。我が国人士中、彼の如きもの果たして幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なり、と。余は実にこの時を以って彼に許せり。」(『三十三年の夢』)

・孫文をめぐる日本人:梅屋庄吉
 「君は革命の兵を挙げよ。我は財を挙げて支援す」

・ 孫文をめぐる日本人:三つのグループ
 自由民権主義派:
 国権主義派:
 政界、財界人物グループ:

・孫文:日本に対する愛と恨み
 「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」。

・真の日中友好を求めて

 第5回授業資料(簡易版)

 第6回 ラストエンペラー溥儀:中国封建王朝の終焉と傀儡国家「満洲国」

・溥儀:ラストエンペラーの数奇な人生
 せんとうてい【宣統帝】
 清朝第12代、最後の皇帝。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。醇親王載?の子。辛亥革命により退位。1932年、日本軍部に擁せられ満洲国の執政、34年皇帝(康徳帝)。日中戦争後、戦犯。59年特赦。著「わが半生」。(在位1908〜1912)(1906〜1967)
・第一次世界大戦とその後の日中関係
 1911年 「辛亥革命」が勃発。清朝政府の支配は壊滅。
 1912年 中華民国臨時政府は南京で設立され、アジア初めての共和国は誕生。孫文は初代臨時大総統に就任(まもなく袁世凱に禅譲)。
 1919年 山東半島の主権を回収しようとする中国側の主張はパリ講和会議に無視され、全国的帝国主義反対運動「五四運動」は勃発。
 1921年 中国共産党が設立される。
 1924年 第一次「国(民党)共(産党)合作」が開始。
 1931年 日本関東軍は「満洲事変(九・一八事変、柳条湖事件)」を挑発、三ヶ月間、遼寧省・吉林省・黒竜江省を占拠。
 1932年 日本軍のコントロールのもとで「満洲国」が設立され、その後、中国東北地域への移民政策が実施される。
 1937年 「支那事変(七・七事変、廬溝橋事件)」が勃発、日本軍は大規模に中国各地へ侵入、日中は全面的戦争状態に入る。
・「大陸政策」→「満蒙独立構想」
 1889年、山県有朋は内閣総理大臣に就任、超然主義をとり軍備拡張を進める。第一回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。
 第一回「満蒙独立運動」(1912年)
 第二回「満蒙独立運動」(1916年)
 「満蒙独立運動」の首謀者:
・「柳条湖事件」と「満洲国」建国

・「満洲国」は独立国家だったのか?

・犠牲となった人々(現地中国人住民と日本人移民)

・犠牲となった人々(「残留孤児」)

・溥儀の戦後

第6回授業資料(簡易版)

 第7回 田中義一・石原莞爾・近衛文麿:日中戦争と太平洋戦争

・東条英機:軍・政を一手に掌握した戦争責任者
 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) ? 1948年12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣(1941年10月18日 - 1944年7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級 。統制派の中心人物。首相在任中に複数の大臣を兼任し、また、太平洋戦争を始めた。東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・いわゆる「田中上奏文」
 
・「廬溝橋事件」(支那事変・七七事変)
 日中戦争の発端となった事件。1937年7月7日夜、廬溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国語を攻撃し、両軍の交戦に至った。『広辞苑』より


・ずるずると全面戦争の泥沼へ
 1937.7.7.廬溝橋事件
 1937.8.13.上海事変
 1937.8.14.国民政府「自衛抗戦声明書」
 1937.8.15.中国共産党「抗日救国十大綱領」
 1937.12.日本軍、南京占領
 国民政府の首都:


・長期戦化された日中戦争
 日本軍部
 近衛政権


・毛沢東と『持久戦を論ずる』
 戦争は長期戦:
 戦争の展開は三段階:


・太平洋戦争へ突入した日本
 「第二次世界大戦のうち、主として東南アジア・太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国トノ戦争。……1941年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって開戦。……」 『広辞苑』より


・日本の敗戦とアジア民衆が受けた戦禍

第7回講義資料(簡易版)

 第8回 毛沢東・蒋介石:中国国民党・中国共産党の内戦と合作

・中国国民党について
 創立者:
 その後のリーダー:
・中国共産党について
 創立者:
 その後のリーダー:
・第一次国共合作
 なぜ協力できるのか?
 1)
 2)
・蒋介石によるクーデターと国共の内戦
 理由:

・中国共産党における路線の転換
 1)
 2)
 3)
・毛沢東の軍事思想と孫子の兵法
 国民政府の囲剿(包囲掃討作戦)
  第一次囲剿:1930.12.-31.1.動員兵力10万
  第二次囲剿:1931.3.-5.動員兵力20万
  第三次囲剿:1931.7.-9.動員兵力30万
  紅軍(共産党軍)兵力:4万
・毛沢東の軍事思想と孫子の兵法
 毛沢東の遊撃戦戦術
  「誘敵深入」
  十六文字の秘訣「敵進我退、敵駐我攪、敵疲我打、敵退我追」
  「傷其十指不如断其一指」
・2万5千里の長征(紅軍の大移動)
 ヨーロッパ流戦術の敗北と革命根拠地の放棄
 長い道程の大移動
 遵義会議と毛沢東指導権の獲得
・抗日戦争から解放戦争へ
 中国の抗日戦争
  「柳条湖事件」(1931.9.18.)
  「廬溝橋事件」(1937.7.7.)
  1945.9.3.日本軍の降伏
 解放戦争
・毛沢東を勝利に導いた理由
 1)

 2)

・蒋介石政権が敗北した理由
 1)
 2)
 3)
 4)
 結論:「水可以載舟、亦可以覆舟」
・中華人民共和国の建国
 1949年10月1日建国

 第8回講義資料(簡易版)

第9回  金日成・スターリン:朝鮮戦争と東アジアの冷戦体制

・戦争までの朝鮮半島の歴史の流れ
 1895年、下関条約、閔妃暗殺
 1905年、日露戦争終結、韓国統監府設置
 1907年、ハーグ密使事件
 1909年、伊藤博文暗殺
 1910年、日本の「朝鮮併合」。朝鮮の完全植民地化
 1945年、分割占領、韓国統監府解体
 1948年、大韓民国建国、朝鮮民主主義人民共和国建国

・スターリン・金日成・毛沢東の約束
 毛沢東はじめてのソ連訪問(1949.12.ー1950.2.)

・朝鮮戦争とは

・朝鮮戦争の参加者と様々な名称

・参戦諸国とそれぞれの投入兵力

・朝鮮戦争の推移
 映像「朝鮮戦争」

・朝鮮戦争の結果(1):朝鮮半島の分断

・朝鮮戦争の結果(2):冷戦の確立

・日本と朝鮮戦争

・朝鮮戦争と米中関係
 1)
 2)
 3)
 4)

・朝鮮半島と東アジアの平和の実現を

 第9回授業資料(簡易版)

第10回 劉少奇・周恩来・林彪・「四人組」:冷戦下のアジアと中国の一連の政治運動

・アジアをめぐる社会主義諸国(地域)と資本主義諸国(地域)の二大陣営の対立

・孤立環境下の中国の経済建設
 1950、
 1953-1957、
 1956、

・「大躍進」とその挫折
 1958-61年、毛沢東の提倡で展開された大衆運動による経済建設運動。現実から遊離し、自然災害・ソ連の援助引上げなどもあり失敗。文化大革命に至る党内対立の出発点となった。(『広辞苑』より)
 
・中ソの対立 ーイデオロギーから国家関係へー

・エスカレートされた中国の政治運動
 1957年、「反右派闘争」
 1963ー66年、「社会主義教育運動」(「四清運動」)
 1963ー66年、「毛沢東思想学習運動」
 1966年、紅衛兵造反運動(文化大革命の開始)
 1973-74年、「林彪批判・孔子批判運動」
 1975年、『水滸伝』批判運動
 1976年4月、第一次「天安門事件」
 1976年10月、「四人組」の逮捕(文化大革命の終焉)

・巨大な試験・巨大な失敗:文化大革命(一)
 毛沢東への個人崇拝

・巨大な試験・巨大な失敗:文化大革命(二)
 熾烈な権力闘争
 劉少奇・ケ小平および全国各地にいる「走資派」たちの失脚
 ナンバー2人物だった林彪のソ連亡命と墜落死
 江青を初めとする「四人組」の周恩来打倒キャンペーン
 毛沢東の死去と文化大革命の終焉

・文化大革命とアジア諸国

・文化大革命をめぐる歴史的評価
 1981年6月、中国共産党11期6中全会は、「建国以来若干の歴史問題に関する決議」を採択した。
 現在の中国では

・「文化大革命」は避けられなかったか?

 第10回授業資料(簡易版)

第11回 毛沢東・ニクソン・田中角栄:人民中国の苦悩と国際社会への復帰

・戦後初期の日中関係
 1950.2.中ソ友好同盟相互援助協約調印、日本の軍事的復活に対する中ソの相互防衛関係確立
 1950.6.朝鮮戦争勃発
 1951.9.サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約、日本の対外的選択
 1951.12.ダレス国務長官要請下の「吉田書簡」
 1952.4.日本と台湾:「日華平和条約」を調印、日本は台湾を選択

・「政経分離」VS「政経不可分」
 「政経分離」か、「政経不可分」か
 「    、    」「       」への中国側方針の転換
 物々交換に基づいた第一次、第二次、第三次、第四次日中民間貿易協定の締結
 L・T貿易(廖承志と高碕達之助)
 「水を飲むときには、井戸を掘る人を忘れない」、日中民間外交の先駆者たち

・積極的な民間と消極的な政府
 1949.5.-6.中日貿易促進会・中日貿易促進議員連盟・中日貿易会という「中日三団体」が発足
 1949.10.日中友好協会が設立
 1955.7.松山バレー団訪中(中国バレー劇「白毛女」を公演)
 1956.5.京劇名優梅蘭芳訪日
 鳩山(一郎)内閣の「二つの中国」政策
 岸(信介)内閣と長崎国旗事件
 佐藤(栄作)内閣と国連でのアメリカ追随

・米ソ両大国の対立と アメリカ対中国政策の変化
 1)
 2)
 3)
 4)
 5)

・アメリカ、中国へシグナルを送る
 1970年初頭、米中大使級会談がワルシャワで再開
 1970年10月、「中共」の代わり、「中華人民共和国」という呼称は使用される
 1971年4月、アメリカ側のサーブで「ピンポン外交」が開始

・毛沢東の反応と中国「大外交」の始動
 1970年10月1日、
 1971年4月、

・ニクソン・ショック
 1971年7月、大統領補佐官キッシンジャーは

 翌年のニクソン訪中を発表
 佐藤内閣は                   、経済界・政界が
 同年9月、第二六回国連総会では中国招請・台湾追放のアルバニア案が可決され、中国は国連と安保理へ復権
 佐藤内閣は

・田中角栄の登場と田中内閣の決断
 1972年7月、田中角栄が自民党総裁となり、第一次田中内閣を組閣
 「日中問題は外交問題であるよりも国内問題だ」「日中関係を解決せずして、日本の安定なんかあるわけがない」
 新内閣の三大政策目標:@
            A
            B

・田中訪中と日中国交の回復
 1972年9月25日ー30日、田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官ら中国訪問
 四回にわたる日中会談
 日中共同声明と「      な状態」の終結

・中国の国際社会への復帰と日中関係の新時代
 1974年、「日中貿易協定」などが締結
 1978年、ケ小平副首相訪日、「日中友好平和条約」調印
 1979年、大平(正芳)首相訪中
 1980年、華国鋒首相訪日
 1982年、鈴木(善幸)首相訪中
 1983年、胡耀邦総書記訪日
 1984年、中曽根首相訪中
 1985年、彭真全人代委員長訪日
 1988年、竹下首相訪中
 1989年、李鵬首相訪日
 1989年、日本政府は中国へ50億円無償援助を提供
 1991年、海部(俊樹)首相訪中
 1992年、江沢民総書記訪日、天皇・皇后訪中

 第11回授業資料(簡易版)